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コーチ物語 クライアント20「日本の危機」 第七章 日本を動かすもの その5

「ちくしょう、私は、私は………」
 自分でも何を悔しがっているのか、何に腹を立てているのかわからない。けれど心の奥から何らかの感情が沸き上がってくる。これは一体なんなのだ。
「恥じることはない」
 人工知能の佐伯孝蔵がそう言う。
「黙れっ!」
 気がつくとそう言っている自分がいた。
「何も恥じることはなかろう」
 繰り返しスピーカーからその声が聞こえる。
「黙れ、だまれ、黙れっ! お前に何がわかるっ」
 私は思わず端末を蹴り上げてしまった。そしてあたりはシーンとなる。聞こえるのは私のハァハァとした息だけ。
 やってしまった。まさか、この私がこんなにも声を荒らげてしまうとは。そして人工知能端末の佐伯孝蔵を思わず蹴り上げてしまうとは。
「飯島さん、あなたも人間でしたね。安心しましたよ」
 羽賀コーチがそんなことを言う。
「どういう意味だ?」
 私はその言葉を聞き返す。
「決して皮肉で言っているわけじゃありません。飯島さんは元来とてもクールな方で、さらに論理的にものごとを考える。しかし、こう思ったんです。人工知能の佐伯孝蔵に縛られて、人としての感情を失ってしまったのではないか、と」
「ふん、そんなもん判断をくだすのには不要だからな」
「本当にそうでしょうか?」
「当然じゃないか。多くの人が間違っているのは、論理的に間違っているのにかわいそうだからとか、困っているからとかの同情から誤った判断をくだすのだよ。そんなもんは的確は判断をくだすのにはジャマなのだよ」
「それでお前は多くの人の命をなんとも思わずに奪ったのかっ!」
 蒼樹がほざく。航空機事故のことを言っているのだな。それならこっちにも反論はある。
「ふん、たわけたことを。あの事故で奪われた命はたかが二百名弱。だが今ロシアや中国に国力を奪われてみろ。失業者は跡を絶たず、さらに自殺者まで増えてしまう。路頭に迷う家族も増えてしまう。そうなると、その数十倍、いや数百倍の人が結果的には更に悲惨な目に遭うことになるんだぞ」
「だからって、安易に人殺しをしてもいいのかっ!」
「バカ言え。あの事故のお陰で家族はそれなりの保証金をもらう。貧乏だった家にお金が渡るんだぞ。家族はうまくいけば一生左うちわで暮らせるのに。それが失業して自殺だとどうなると思う? 金なんて出やしない。不幸な人間が増えるだけじゃないか。何か間違っているか?」
 そう、私はあの航空機事故でロシアや中国からの脅威からこの国を守ろうとしたのだ。あれは単に佐伯様の力を国に示したパフォーマンスではない。こういった諸外国への忠告でもあるのだ。裏の世界に住んでいる人間なら、あの事故の意味はよくわかったはずだ。
「なるほど、それも一理ありますね」
「羽賀さん、何を馬鹿なことを。正気ですか?」
「へぇ、羽賀さん、あんた話がわかるじゃないか。そんな人がいてくれて嬉しいよ」
「嬉しい、今そうおっしゃいましたね」
「あぁ、そうだよ。嬉しいよ」
「嬉しいとどんな気持ちになりますか?」
 羽賀コーチの質問、これは何を仕掛けようとしているのだ? だが私は思わず自分の本音をポロッと口にしてしまった。
「嬉しいと自分が認められた気持ちになるね。私のやっていたことが間違いじゃないってね」
「つまり、あの事故を引き起こす最終的な判断はそこにあったということですか?」
「どういう意味だ?」
「飯島さん、あなたは認めてもらいたかったんだよ。たとえ人工知能であっても佐伯孝蔵という人物に。自分の判断と佐伯孝蔵の判断、それが同じであることで、佐伯孝蔵からほめてもらいたかったんだよ。そして嬉しいという感情をもらいたかった。だから全ては佐伯孝蔵と同じになろうとしていた」
「ち、ちがう。そんなことじゃない。さっきも言った通り、国のためには何が有効化を考えて………」
 言いながら後の言葉が続かない。それよりもこの男に、羽賀コーチに見透かされたという気持ちのほうが強く湧いてきた。というよりも、実はそうだったのかということに大きな衝撃を受けた。
 確かに、自分の答えが佐伯様と同じだったときに、たとえ人工知能であっても佐伯様からお褒めの言葉をいただいたときには嬉しく感じていた。そしてまた同じようにその言葉をもらいたくて、必死になって佐伯様と同じ思考を持とうと努力していた。
 私を動かしていたのはそこだったのか。私はそんなちっぽけな自分の感情に動かされていたのか。それが真実なのか………
「飯島さん、あえて佐伯孝蔵と同じ言葉を使わせてもらいますよ。恥じることはありません。それが人間というものなのですから」
「人間………」
「そう、飯島夏樹は機械ではありません。コンピュータでもありません。人間なのです。人は感情によって動かされるものなのですよ。心地よいと、快楽と感じればまたそれを追っていこうとする。逆に心地悪い、不快だと感じればそれを遠ざけようとする。先ほど飯島さんが端末を蹴り上げた行為。これは飯島さんにとっては不快だと思ったからそのようなものを遠ざけようとした行為に過ぎないんですよ」
 羽賀コーチの言葉が論理的に頭に入ってくる。確かにその通りだ。それに対して何の異論もない。
「私は、私は………」
 何かを言おうとしたが言葉にならない。言葉にならないこの思いをどう表現すればいいのだろうか。
「あぁぁぁぁぁっ!」
 こうするしかなかった。私は頭をかかえ、天を仰ぎ、目をつぶりながらも何かにすがろうとする。そのときに出てくる感情の苦悩を大きな声を出すことで表現。何も考えずにそんな形になってしまった自分を冷静に見つめる自分がいる。
 どちらの自分が本当なのだろうか。そこを考えるとまた苦悩の声が心の奥から湧いてくる。
 そして、私には信じられないあるものが身体の中から出てきた。
 涙。
 気がつくと、私は涙を流していた。この涙はなんなのか。私自身に対しての思いが湧いてきたのか。それとも何かに対しての悲しみの涙なのか。それすらわからない。
 けれど、涙がどんどんあふれてくる。あふれてくると同時に、たくさんの人の顔が目の前に飛び込んでくる。
 その顔は私をあざ笑うようなもの。所詮お前はその程度だと言われている顔。しかし、そんな中にも私のことを尊敬し敬ってくれる顔もある。優しく微笑んでくれる顔もある。
「大丈夫。お前はお前らしく生きていけばいいんだよ」
 ふとそんな声が聞こえてきた。誰の声というわけではない。そう、強いて言えば天の声、神の声。私にはそう感じた。
「飯島さん、落ち着きましたか?」
 羽賀コーチがハンカチを差し出して私にそう言う。
「あ、ありがとう」
 言って驚いた。私が目の前の敵に当たる羽賀コーチに対してありがとうなんていう言葉を使うとは。
「それでいいんです。飯島さん。今気づいた感情のまま生きていけばいいんです。今までが間違いというわけではありません。かといって正解でもありません。今をどう生きるのか。それを真剣に考えていけばそれでいいんです」
「それでいい………」
「そう、それでいいんです」
 何か自分に憑いていたものが落ちて行く。そんな感覚を覚えた。
「私は間違ったことをしていなかったのか?」
「それは飯島さん、あなた自身が決めてください。そしてこれからどのように生きていくのか、それもあなた自身が決めてください。もうあなたを縛るものは何一つないのですから」
 そう言って、私が蹴り上げた人工知能の佐伯孝蔵の端末を指さす羽賀コーチ。私はそれを見て、思わず笑っていた。

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