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コーチ物語 クライアントファイル15「弟子入り志願」その5

「違うちがう。あーもうっ、佐藤さんいつもそこで自分の意見を言っちゃうのよねぇ。それじゃコーチングにならないでしょ」
 羽賀さんのところに通い始めて一週間。毎日ミクにコーチングの個人レッスンを受けている。が、これが思ったように上達しない。
 今日も言われてしまったが、ボクは自分が思っている答をつい先に口してしまう癖がある。このことはミクに指摘されて初めて気がついた。
「佐藤さん、そこをうまく質問に切り替えてみて下さいよ。さっき私に言った『料理を誰かに食べさせるといいのになぁ』っての。あれを質問にするんですよ」
「質問ってどんなふうにすればいいんですか?」
「簡単よ。料理をもっとすすんでやるようにするためにはどんな方法が考えられますか、って感じでいいんですよ。あーもうっ、これ毎日同じ事を言ってる気がするんだけど」
「すいません。どうしても無意識に先に言葉に出ちゃって…」
 ボクから見れば年下の女の子にこんなふうに叱られるなんて。でもボクはミクの言葉を謙虚に受け止めることにしている。まずは素直になること。どんなことでもこれが上達への近道だと何かの本で読んだからだ。
「ふぅ、今日はこのくらいにしておきましょ。佐藤さんってこの一週間で人の話を聴くっていうのはだいぶ上達したと思うんですよ。あとさっきも言った、さきに自分の答をポロッと言っちゃう。この癖さえ直ればなぁ。佐藤さん、何かこの癖を直すいい方法思いつきませんか?」
 ミクに言われて考えてみた。でも結論はボクの中で決まっている。繰り返しの練習。それしかない。そのことを伝えるとミクはさらにボクに質問してきた。
「じゃぁ、私以外にコーチングを練習する相手、誰か思いつきますか?」
 この質問にはかなり考え込んでしまった。誰も思いつかないのだ。前の会社の同僚とかにお願いするのは気がひける。なにしろケンカ同然で出ていった会社だから。自分自身、あまり関わりたいとは思わない。
 その他の友人。これを思い浮かべようとした。が、誰一人出てこない。ボクがいかに人付き合いがなかったのかを思い知らされた。
 これもミクに伝えたところ、こんな質問が。
「じゃぁ身内の人とかは?」
「ボクの両親は広島に住んでいて。すぐに会えるってわけでもないし。それにコーチングなんて言っても理解出来ない人ですから。農業をやっているんですけど、何かと忙しい、忙しいが口ぐせで。電話とかでボクの相手をしてくれるとはとても思えないですから」
「他に兄弟とかは?」
「弟が一人いるんですけど。こいつが結構優秀なヤツで。今、仕事で海外にいるんですよ。確か中東のなんとかって国だったな」
「う〜ん、それじゃぁ電話の相手もできないわねぇ。他に知り合いとか思い当たる人はいないんですか? 学生時代の同級生とか」
「今じゃほとんど疎遠になってますから。連絡先も知らない人ばかりです」
 それを象徴するのがボクの携帯電話の登録件数。百件程度登録しているんだけど、そのほとんどがどこかのお店とか会員になっているところの連絡先で占められている。個人の番号はわずかしかない。
「うぅん、コミュニケーションを学ぼうって人がこれじゃぁお手上げだなぁ」
「はぁ、やっぱりそうですか……」
 そもそも人付き合い下手のボクがコーチングというコミュニケーションの技術を学ぼうなんていうのが間違いだったのかな。
 二人してうんうんうなっているときに羽賀さんが帰宅。
「あ、お疲れ様。今日は藤本さんのところのコーチングだったよね。どうだった?」
「うん。藤本さんも笠井さんも元気にやってたよ。スタッフも接客力がだいぶ身に付いて、中古屋もパソコンショップも評判が高いよ」
 今日羽賀さんが行っていたのは藤本さんという地元で中古屋とパソコンのメンテナンスショップを営んでいる方の会社のコーチングだと聞いている。今、その藤本さんの右腕として活躍している笠井さん。以前はボクと同じように失業していた人らしいんだけど、羽賀さんのコーチングで立ち直って、一度自分で事業を起こし始めたときに藤本さんと一緒にやることになったらしい。
「いいですよね、人脈のある人は。そうやって一度沈んでも再起出来るチャンスが多いんですから。それに比べてボクはそんな人脈なんてないから…」
 ボクがボソリと言った言葉を羽賀さんは聞き逃さなかった。
「ミク、佐藤さんが言っていることってどういうことだ?」
「うぅん、それがね……」
 ミクは今日のやりとりを一通り羽賀さんに説明。
「なるほど。問題点は佐藤さんのコーチングの練習相手がミク以外にいないってことなんだね」
「まぁそうなるかなぁ」
「でもボクは、今まで他に友達を作ってこなかったって事の方が問題だと思って。そんな人付き合いの下手なボクにコーチングなんてできるんでしょうか?」
 その点がとても頭にひっかかっていた。そしたら羽賀さん、にっこり笑ってこう言ってくれた。
「心配いらないですよ。ある人の話をしましょう。この人もとある事業で会社を興して、今では結構多くの人に知られているまで登り詰めた人なんですけど。まぁ周りから見れば成功者と言われる人ですね」
 成功者か。ボクはまずそのキーワードに反応した。とても興味のある話だ。
「その人も実は会社を辞めるときには、上司から嫌われていたそうです。まぁ辞める直前は会社の仕事にはほとんど手をつけず、独立の準備ばかりしていたからそう思われても仕方がないと言っていますけどね」
 状況はちょっと違うけれど、ボクに似ているなぁ。
「さらに、勤めていた会社は自宅から思いっきり離れていたところにあって、朝早く家を出て夜遅く帰ってきていたという状況。だから地元の人とのつきあいなんか全くなかったそうですよ」
「つまり、誰一人頼る人がいなかった。そういうことなのね」
「そう、ミクの言う通り。だからこそその人が最初にやったことがあるんです。それがとにかく多くの人と知り合うこと。それでいろんな会合に顔を出したり、異業種交流会に出かけたりしていたんです」
「なるほど。だったらすぐに多くの人と知り合えたでしょうね」
「えぇ、知り合えたのは知り合えたけど、知り合っただけ。仕事につながることも紹介をもらうこともできなかったそうですよ」
「えっ、そんなに動いてもダメだったんですか?」
 ボクは一瞬希望の光が見えたと思ったけれど、それが失われてしまった。
「でもあることを始めたら、みるみるうちにむこうから人が寄ってくるようになってきたんですよ」
「ど、どんなことを始めたんですか? ぜひ教えて下さいっ!」
 ボクは思わず身を乗り出して羽賀さんに言い寄ってしまった。その方法さえわかれば、今のボクにも人脈っていうのができるかもしれない。
「教えて欲しいですか? でもその前にちょっと考えてみましょうか。佐藤さんだったらどんな人のところに行ってみたいと思いますか?」
 どんな人のところに行ってみたいか。頭の中でその答を考えてみた。
「うぅん、そうですねぇ。やっぱり自分にとって有益になる人かなぁ」
「具体的には?」
「自分が欲しい情報を持っている人ですね。その人のところに行けばその情報が得られる。そう思ったら足を運びますよ。そう、今ボクが羽賀さんのところに通っているのもその理由があるからです」
「佐藤さん、いい点に気づきましたね。それなんですよ。その人がやったのは、多くの人に自分が持っている情報をどんどん発信したんです。まずはインターネットのメールマガジンを発行。さらには無料の情報誌を発行して多くの人に配布。またいろんな会合に出かけても、自分の持っているノウハウを惜しみなく人に伝えたそうです。その結果……」
「その結果?」
「この人に聞けば何でもわかると言うことで、評判が高くなったんですよ。そして社長さんなんかもわざわざその人のところに出かけて相談を持ちかけるようになったそうです」
「なるほどぉ、情報発信か。でもボクはまだ発信するほどの情報は持ち合わせていませんよ」
「あれっ、この一週間ボクやミクからどんな情報を得ましたか? 佐藤さんはノートにいっぱい書き込んでいましたよね」
 言われてノートを取り出した。確かにコーチングに関する多くの情報をボクは得ている。
「でも、こんなのでいいんですか?」
「はい、こんなのでいいんです。コーチングは佐藤さんが感じているように、まだまだ知らない人の方が多いですから。ぜひ多くの情報を発信してみて下さい。きっと新しい人脈が開けてきますよ」
「なるほどぉ。わかりました。やってみます」
 羽賀さんの話を聞いて、なんとなくやってみる気になってきた。これが羽賀さんの魅力なんだなぁ。
「ところで気づいてました? 今日もボクは佐藤さんに一つ大きな情報を与えたんですよ」
「えっ、どんなことですか? あ、さっきの話ですね」
「それもあるけれど、自分が持っている答を人に伝えるときのコツです」
 言われてみればそうだ。今回は羽賀さんが持っている答をボクに与えてくれた。これはコーチングとはちょっと違う。しかしとても納得出来る話だった。
「そのコツ、早速教えて下さいっ!」
 こうしてボクのノートにはまた新しい情報が書き入れられた。これらの情報をどうやって発信していこうか。それがこれからのボクの課題だな。

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