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【7人目】雀の涙もない人(20歳)

 私も就活の時期に入った。東京の広告代理店に入社することを目標としていた。面接ついでに、マッチングアプリで知り合った人と会っていた。

 無事、広告代理店で内定を貰い、内定通知書を貰うタイミングが東京に行く最後のタイミングとなった。その日会う約束をしていたのは、若井さん。若井さんも某有名大学法学部法律学科の優秀な人だった。

 その日、動物園に行き、チームラボへ行き、夜は海で夜景を見て過ごした。スマートじゃない所が多いが、可もなく不可もなくという感じだった。
 別れ際に、付き合ってくれないか、と言われ承諾した。とても喜んでいた。今日を逃すと2度と会って貰えないと思ったと話しており、いい決断力だと思った。


 その後、そのまま自然消滅するかとも思っていたが、裕司(若井さん)からの積極的な誘いがあり、各地に旅行する形で共に時間を過ごした。事あるごとに可愛いと言ってくれた。こんなに人を好きになることはないと思っていたと言っていた。

 大学生活が楽しいと言う話をしてくれた。仲間でよく”BH”というパブに行くらしい。私も行きたいと言ったが、君は子供だからまた今度ね、と言われた。

 そして、事あるごとに私の事を頭がいいと言った。こんなに頭がいい人は人生で2人目。1人は高校の時の先生で、なんでも見透かされている気がした、と言っていた。


 軽井沢で会った時のこと。アウトレットで買い物を終え、屋外ストーブで温まっていた小太りのマダム3人組がいた。ストーブが暑すぎて、買い物袋が焼けちゃうわ、などと話していた。
 私の横で裕司が「焼けるのはお前らだろ」とぼそっと呟いた。なんて言った?と聞いたが教えてくれなかった。小太りのマダム達に対して丸焼きになるぞ、という意味だったと思った。


 今度は三重であった時。裕司の携帯で動画を見ていると、女性の名前から「火曜日厳しいから金曜日でいい?」と連絡が来た。履歴見せてという私。あたふたする裕司。結局、裕司はその子との履歴を消してしまった。

 他の履歴を見せてというと、携帯を渡した。別の女性とのやり取りで、ある日の20時に待ち合せ場所についたという連絡、翌日朝10時に今日はありがとうという連絡が残っていた。問い詰めると、何もしていない、飲んだ後、終電逃したからカラオケで泊まったとの事。何よりも許せなかったのは、飲んだお店は”BH”だったことだ。

 別れようと思ったけど、其々に彼女が嫌がるからごめんねと連絡することを約束し、目の前で送信したことを確認して終わった。裕司に「もういい歳なんだから、責任ある行動をして」と伝えた。
 私は伊勢うどんや松坂牛が食べたかったけど、裕司は100円寿司を食べたいと言った。

 それからは、疑心暗鬼だった。毎晩電話しないと眠れなかった。


 翌年の春になって、私が東京に引っ越す形で近距離になった。これで気兼ねなくお泊まりできる、頻繁に会えると思っていたが、裕司はそれを求めていなかった。

 私が仕事で辛い時、裕司は「そんな事で落ち込んでたらダメだよ」と言った。この人とはやっていけないと思ったが、東京での知り合いは裕司しかいなかった。
 結局、私は裕司と付き合いながらマッチングアプリを始めた。何人かから付き合ってほしいと言われた。うち1人の男の子は私を実家に連れて行き、私の事を親に紹介した。裕司の親にさえ会った事ないのに。このままだと、クリスマスの予定が渋滞してしまうと思い、それぞれの男の子がマッチングアプリを消さない事を理由に関係を終わらせた。

 結局私は転職した。裕司も受けようとしていた有名企業に内定貰った。裕司は驚いている様子だった。


 翌年の4月から同棲予定だった。同棲予定で裕司と半々出してチワワを飼った。名前はシロにした。
 しかし、直前になって、俺は君が怖い。なんでも見透かされている感じがする。同棲できないと言われた。訳がわからなかった。

 そして、同棲を断るのに付き合い続けるのは申し訳ないから別れようと言われた。申し訳ないと思うなら付き合い続けて、シロに掛かるお金は出して、と伝えた。正直、同棲しないなら生活費は変わらない。シロに掛かるお金は年々増える。20代の給与なんてたかが知れてる。不安しかなかった。
 この頃の私の見方は、シロだけだった。


 私は転職先の先輩に一目惚れした。

 裕司は仕事の愚痴ばかりになっていった。なぜ俺がこんな仕事を、とばかり漏らしていた。そう言うところが嫌いだった。

 先輩と付き合う事になり、裕司とは別れた。裕司は動揺している様子だった。シロにかかるお金は振り込んでもらう事にした。


 別れてすぐにシロの体調が悪くなった。ある日の夏、家に帰ると舌を出したまま横たわって、はぁはぁ言っていた。熱中症の可能性も考えて、スプーンで水をあげると落ち着いたが、真っ直ぐ歩けないようだった。
 念の為病院に連れて行ったが、病院では真っ直ぐ歩けており、検査結果も問題はないとの事だった。

 2週間後。仕事から帰ると、シロがゼェゼェ行って横たわっていた。トイレにもいけず、その場で用を足している様子であった。
 急いで夜間病院を探し、タクシーで向かった。その病院では対処しきれず、別の病院へ向かったところ、いつ亡くなるかわからないから待っていてくれと言われた。その日は状態を取り戻し、2週間入院となった。入金費用は50万。ゾッとしたが、命には変えられない。

 翌日の昼、シロが入院している病院から、シロが自発呼吸をしていないので、呼吸器を付けると連絡があった。急いで病院に向かった。
 着いた時、呼吸器は外れて、酸素カプセルの中で横たわっていた。私の声を聞いて、もがいていた。抱きしめた。

 先生からは、安楽氏の選択を言い渡された。私1人では決めきれず、裕司に連絡したが返事がなかった。先生は背を押すように、このまま回復する見込みはほぼない、回復してもまた繰り返して辛い状態となると言った。選択肢は一つしかなかった。

 死後のCTスキャンで、蜘蛛膜嚢胞であったことがわかった。またそれを起因とする発作の際に誤飲を起こし、肺炎を起こしていたため、肺はぺちゃんこだったとのこと。あのまま治療しても回復する事はなかったとの事。


 シロのお葬式に裕司も呼んだ。終始泣いてる私と、平気そうな裕司。
 壺に入って小さくなってしまったシロ。私の見方は居なくなってしまった。

 それから裕司とは連絡を取っていない。雀の涙もないとはこう言う人のことだと思う。

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