想念をいかに浄化するか
想念について考える。
どうやら想念とは、この世界の情報が肉体器官から心に入り込み、自分の悟性を経由した後に発するものではないことが分かった。
想念は現象界の情報が肉体器官に入った後、悟性(understanding)に届く前に発せられるものだ。
よって、想念の浄化とは常に過去に向けて行われるものとなる。
自分の心を磨くには、想念の浄化が不可欠だ。
浄化された想念で、正しい情報を心に届けなければならない。
今という瞬間を通り越し理解する前に発せられる揺らぎが、想念となる。
想念は一直線に流れるものではなく、心の上で渦を巻く雲ように存在する。
どれだけ時間が経とうが、想念の雲は心の上を彷徨う。
この雲により、心に影が落ちる。
心に闇ができる。
この闇を晴らす方法はあるのか。
闇を晴らす方法。
それは自らの責任による仏法真理の光の照射となる。
その過てる、過去に向け、光を掲げよ。
光で照らせ。
反省とはなにか。
まず、正しい世界観が必要となる。
この大宇宙は、縁起の理法で成り立っている。
時間縁起と空間縁起により構成されている。
私たちが住む、この地球においては、
あの世とこの世を、行き来する、
転生輪廻という仕組みが築かれている。
あの世が本来の世界(霊の国)で、この世は有限の物質世界。修行の場であり、神が光を散乱させるための黒き有限のものが存在する場である。
過去、生まれる前の計画を立てた自分がいる。
現在、今世生まれ、日々自我を育て自我を自分と思っている自分がいる。
未来、あの世に帰って結果どうだったのかを振り返る自分がいる。
その世界を認識することを初期の信仰という。
その、世界観において、
日々育てている自我が
行った行為は正しかったか?
行った思いは正しかったか?
その苦しみのもとはなんだ?
この振り返りが反省となる。
この世に来る前の自己において、あの世に去っていく自己において、
今世その想念を発する自我を振り返り、
過ちがあると、その自己が訴えるのであれば、
その間違った思いを正せ、その間違った行いを正せ、
そうなった、原因を探せ。
他人にその原因を探すのではなく、自分がそうだと思い込んみ作り出した他人の姿と、その自分が作り出した他人により判断した自分の行動どちらもが、自分の責任なのだ。
その恐怖心は必要なのか?
わだかまり
執着
自己保存
嫉妬
疑い
うぬぼれ
それは、必要なのか。
心の中で相手に詫びよ
心の中で相手を許せ
心の中で自分が描き出した他人の姿を変え、自分の思いも変えよ。
そして、それができた時、心の中で自分を許せ。
そして、そこから教訓を探せ、
成長を探せ。
そしてこれから先を
新しい「idea」 で幸せを作れ。
新しい「idea」で未来を包み込め。
肉体、そして今世作った自我は、この世を去った時に
すべてが虚しく、消滅してしまう。
残るのは、心とその記憶領域である想念。
そして、どうせ消えてさよならだと思って傷つけてきた、自分の仲間たちの生き通しの姿だ。
よくよく考えよ。
仏法真理で照らし、癒すのだ。
その傷を、
その痛みを。
そしていつか、仏と出会い、根本なる仏の存在を感じえた時に信仰は本物へと向かっていくのだ。
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