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いつか約束の一作を

 ここのところ、なんだか昔のことを思い出したりしています。シアタートップスに行ったりしたからかなあ。今や友達となった卒業生に会ったから?あー、高校の同窓会なんてこともありましたね。今日書くのは、まだ私が20代だった頃のご縁のお話。

 赴任した学校にたまたま演劇部があって、たまたま顧問が別の部と掛け持ちで持っていたので、私も顧問になることになった。人数がそう多くない、女の子ばかりの部活だったので、既存の脚本集が使えなかった。そこで致し方なく脚本を書くことになった。最初の学校も、2校目もそんな感じ。そして2校目の時に、その地区の演劇発表会で上演したら、中学校演劇界の重鎮だったM先生が「ざまたかさん、脚本を書くならA先生の門下生になりなよ!」と、紹介してくださったのが「脚本研究会」。A先生は長く中学校演劇に携わっておられた先生で、ご自宅の一室を開放してくださっていた。月に一度、A先生のところに集まって参加者の脚本を批評し合っていた。かなり年齢層の高い(おじいさまばかりの)集まりではあったのだけど、その分大層可愛がっていただいた。「ざまたかさん、悪いんだけど事務局やってもらえるかな?」A先生に言われて下っ端の私は毎回の議事録を郵送したり、後半はお茶菓子を買う係をしていた。おじいさまたち、泉屋のクッキーがお好き(かわいい)なことがわかった時はあの白と青の缶のクッキーを買いに行ったりもしたっけ?私が書いて発表する予定の脚本もあれこれアドバイスしていただきながら書き上げて、生徒達のところへ持って行った。なんとも心強かった。(ここで知り合った方の劇団に誘われて、最近でもちょっとしたお披露目をしたりするのだけど、それはまた別の話)脚本研は毎年夏に鹿沢温泉で合宿もしていた。私が参加した年が最後の合宿だったのだけど、それも良いう思い出だった。家事も仕事も棚に上げて、美味しいご飯と温泉でゆったりしたがら、一日中演劇のことを喋っていたあの時間は今思えばとても贅沢なものだった。あの合宿知り合った方達が今でも中学校演劇の中枢を担っていらして、すごい方達とご一緒したもんだなあと思ったりもする。私にそんな沢山のご縁をくださったA先生。とても穏やかで優しい先生だった。もちろん脚本研の参加者はみなさん気さくで優しい方ばかりで「ざまたかさん、これがマイナークラブのいいところだよ」なんて言ってくださった。運動部ばかりがもてはやされる中学校雰囲気のなかでは、演劇などサブカルチャーもよいところだったけど、みなさんそれもまた楽しんでいらした。A先生は写真がお好きだった。都大会の舞台の写真も長いこと撮ってくださっていたけど、季節の花を撮影したり、海外に撮影旅行に出かけられたりもしていた。ある年、写真の個展も開ていらした。脚本研のメンバーがお手伝いしていて、なんともアットホームな個展だった。フィンランドのお祭りで撮影したという女の子の写真がとても可愛らしくてよく覚えている。学校の土曜日の授業があれこれ変更になっていって、参加者が参加しにくくなっていったことや、年配の参加者が亡くなっていったこともあり、やがて脚本研は閉じることになった。
その数年後、A先生が亡くなった。お別れ会のお知らせをいただいて行ってみたら、会場は先生の写真で飾られていて、とても明るい雰囲気だった。脚本研や中学校演劇の関係者のみなさんはもちろん、「私、演劇部でもなんでもなかったのよ。先生のクラスの学級委員だったの」という方もいらしていて、みなさんが美味しいものを食べながら、先生の思い出話に花を咲かせていた。教員という仕事はなんと豊かなのだろうとこの時思った。先生は生前、この会に呼ぶ人のリストを作り、司会や受付などモロモロのことを親しい人に頼んでいたそうだ。自分の葬儀もこんなふうにしたいと今でも思っている。
先生は毎年年賀状をくださった。最後の年賀状には「書いてくださいよ」とメッセージが添えられていた。確かそれに私は「今は書いていませんが、書きたいものはあります」と返したのだった。いつか、いつかと思いながらもう長い月日がたってしまった。書いたところでそれを演じてくれる生徒が今はいるわけでもないのだけど。いつか約束の一作を。


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