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教育史としてコロナ禍の養護教諭を記録しておく〜③休校になる前のこと〜

※あくまで個人的な覚え書きです。
あれこれ情報が集まれば加筆訂正します。養護教諭クラスタの皆様、よかったらあなたの「コロナ禍」を教えてください。

令和2年2月から3月。 

 生徒が感染するというより、家族が感染したために濃厚接触者として欠席するケースが出てきた。この頃は感染者が出た場合には専門業者が消毒していたかと思う。消毒の後はお店なども一定期間の休業していた。学校で感染者が出たときの消毒はちゃんと専門の業者を頼んでくれるのだろうか?と心配だった。職員で、とか言われても不安だったし。

 教育委員会からは「差別のないように配慮して」と言われていたが、欠席者についてあれこれ詮索するするような子はおらず、ひとまず安心。入試もなんとかクリアできた。この頃はまだ「感染しても重症化することは少ない」という情報で、「基本的な感染予防を心がけよう」と生徒には呼びかけていた。3月初めの卒業遠足(校外学習)はギリギリまで企画していたものの、ダイヤモンドプリンセス号の件があり、中止になった。新型インフルエンザのときもいろいろあったが、あの時は治療役が思いのほか早く出て来たのですぐに沈静化した。今回は万が一感染者が出たら、「あの子のせいで〇〇ができなくなった」「あの子のせいで卒業式に出られなかったた」という気持ちが、生徒や保護者の中に出てくるのではないかとヒヤヒヤした。そんなとき、手伝いに行っていたプレーパークで「海外の学校は2〜3ヶ月休業にしているよ」という話を聞いた。こんなにピリピリするくらいなら休業にしてくれた方が安心なのに、と思った。その矢先の臨時休業要請。それが前の週の木曜日で、次の週から休み。え?待って待って!そんなタイミング?授業はどうするの?課題出すったって間に合わないよ?え?え?というところだったが、とにかく慌てて学校を閉じることにした。いきなりすぎたけど、まだ病気の全容が掴めてない中、とにかくこれで「あの子のせいで!」というのは無くなったなあとちょっぴりホッとする気持ちもあった。




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