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【俳句】助詞「の」の効用

 俳句を俳句たらしめるものは何であろうか。ひとつに、意味の次元に留まらず、音韻、詩情の世界へ飛翔する点である。


 俳句は五七五、わずか十七音で構成される世界最短の詩型である。そのため、一音に重みがあり、散文の場合のそれよりもはるかに与える影響が大きい。そして、俳句には、切れ字の概念が存在し、例えば「に」を「や」に変えるだけで、立ち上がる風景が大きく変わってくる。よく引き合いに出される芭蕉の「古池蛙飛びこむ水のおと」と「古池蛙飛びこむ水のおと」の違いである。後者は散文を五七五に切り取っただけの説明文に近い印象である。前者は、「や」により、古池と、蛙の飛びこむ水の音がつかず離れずの程よい距離感を保ち、景に深みができる。説明文による単純な景描写とは異なる奥行きがある。つまり、一音の違いにより、狭く限定された世界から、広い世界へ飛躍するのである(読者による解釈の幅も程よく広がるだろう)。

 本稿では、切れ字について詳細に検討するのではなく、助詞「が、の、を、に、へ・・」のひとつ、「の」について考えていきたい。一句のなかで様々な顔をみせる「の」の妙味を感じていただけたら幸いである。また、助詞には、格助詞、接続助詞、副助詞、終助詞、間投助詞、係助詞、と小難しい分類があるのだが、その点は助詞の概論であって、俳句に触れるにあたり知らなくても問題ないためここでは述べない(勿論、習熟するためには必要である)。俳句は芸術の側面もあるため、アカデミックな一面にとらわれ過ぎずに、感性として良いと思えるかどうかが、楽しむ点において重要である。つまり感覚的な把握―黙読したり、声に出して読んだときの良しあしの判断を大切にしたい。
 これから、俳句としてはこの表現がよい、と私なりの考えを述べていくが、必ずしもその限りではない点を付け加えておきたい。
 早速、次の一句を鑑賞してゆく。

 一茎を文字摺草の立ててをり 『山廬風韻』伊藤敬子
 注釈:「文字摺草」の読みは「もじずりそう」である。茎を立て、上部にらせん状に花を咲かせるラン科の植物。

 名句であるが、初めてみる方は一瞬戸惑うかもしれない。なぜならば、中七の「の」が現代人にとって、なじみの少ない使い方だからである。本句の「の」は、主語につける「が」に相当する表現である。例えば、花の咲く頃、の「の」である。花「が」咲く頃と意味は同じである。「一茎を文字摺草立ててをり」と改変すると、意味がよくわかるだろう。
 問題は、「の」にするか、「が」にするかのわずかな違いにより、感じ方がどのように変わるかである。

 一茎を文字摺草の立ててをり 『山廬風韻』伊藤敬子
 一茎を文字摺草が立ててをり 説明のために改変

 私の感覚では、前者のほうがよいと思うのだが、後者をよいと思う方がいても勿論問題はない(私の価値観を押し付けないための弁明程度の意味である)。ただし、「型の文芸」の視座に立てば、つまり先人らの培ってきた俳句としてみれば、前者が勝るのではないかと私は思う。
 「が」という表現は口語調であり、表現として浅いのではないか。勿論、口語調が悪いわけではない。俳句は、散文におけるフォルマリズム(形式主義)に近い感覚が根強く、俗臭ある言葉から離れるほど、つまり日常生活においてあまり使われない言葉ほど、文学性を高く保つ傾向がある。しかし、それは、新興俳句や現代俳句において、新たな道が拓かれており、必ずしも正論とは限らない点に留意したい。見慣れない古典的な美辞麗句を並べるのみではよろしくないのである。日記様の散文から五七五の最短詩型に昇華するためのひとつの方法程度の理解で良いかもしれない。また例えば、現代の新宿に住んでいる人が、江戸時代の神社仏閣を想像して、古典的言い回しにとらわれてしまうと、俳句として陳腐になりがちである(それは感性を無視した、明らかな机上の空論、知識のみに頼った句とみなされ、人の心を動かすような詩情は生まれない可能性が高い)。
 本句の助詞「の」については、それが現代人にとって見慣れない文語調ではあるものの、下五の「立ててをり」の力強さ(文字摺草の名詞そのものが有する質量も含む)と、句意のすらっとした清らかさ(文字摺草が凛と立つ姿)から考えて、口語調の世俗感、鈍重さはそぐわないのではないかと考える。また、「が」の改変句は、尖っている―主張が強すぎると表現した方がいいだろうか。季語である文字摺草は当然ながら強く立ち上がるべきであるが、一茎の一語を、より一層強く打ち出すことで文字摺草の本意も映えるだろう。そして、「が」は鋭く硬質なk音に濁音の響きが加わるため、直前の「文字摺草(もじずりそう)」にある濁音の音韻にさらにかぶせてしまうとも考えられる。その音の調べが良いかどうかは、各人の感性である。私は、文字摺草が一茎、凛と立っている句意の表現としては違う気がしてならないのである。
 
 また、話は少し脱線し、日本語は、音韻が単調になりやすいため、語尾に鋭い響きの「か(~ではないだろうか等)」をもってきたり、どっしりと体言で終わらせたり、余韻強く連用形で止めてみたりと意識して工夫をしないと全部「た。た。た。―」「である。である。―」「ます。ます。―」で終わってしまう。俳句も同様、助詞の使い分けを考えて詠む必要がある。音数合わせで適当につけた「けり」「かな」は勿論のこと、助詞一音の必然性を問われるだろう。
 
 同じ伊藤敬子氏の句より、「の」の似た使い方の例を挙げる。

 こきざみに風のあそべる紫蘭かな 『淼茫』同
 美しき声の揃ひて夏座敷 『鳴海しぼり』同

 やはり、「の」は揺るぎない一音ではないだろうか。「の」の使い方により、本句は一段と美しい調べになっており、風、紫蘭の柔らかく透き通るような美しさが立ち上がってくる。夏座敷に満ちる爽やかな勢いに、元気をもらえるような心持さえするようである。

 次の一句は、いわゆる普通の「の」である(直後の体言を修飾する形)。

 墨いろの魚が泳ぎて夏木立 『菱結』同

 注目したい点は、中七の「が」である。ここは、「の」ではないと誰もが思うのではないだろうか。もし「の」に改変した場合、母音oが連続して違和感がある。そして、立ち上がる景、句意からして、その必然性はないだろう。本句では、濁音の「が」として、「墨いろの魚」を一点集中、強調し、ぎらぎらと日の照り付ける夏木立の「日陰」と響かせているわけである。かくして、音の調べ、季語の立ち上がり、句意の最適な働きが実現するのである。

 私の場合、俳句の「の」について初めて意識した頃、片っ端から主格の助詞を「の」にしたくなった。なぜならば、「の」の方が用例も圧倒的に多く、いわゆる俳句らしさを感じられるからである。しかし、盲目的な判断に陥らずに、音の響きから冷静に選定していくようにしたい。文法としては、基本的に「体言を修飾するもの」として考えておくとよいだろう。つまり、普通の使い方である。文法の間違いはわずかに許容されてきた歴史はあるが、大半の俳人は、俳句として成立しないと考えているはずである。時代により変遷してゆく言葉の流動性と、俳句における基本文法は必ずしも同じ流れにないと念頭に置いておくとよいかもしれない。
 
 最後に、飯田蛇笏氏、川端茅舎氏の句を例として紹介し、「の」がどのように詠まれているかを考えていただければ幸いである。

 いちごつむ籠や地靄のたちこめて 『山廬集』飯田蛇笏

 地靄「の」たちこめて。「が」と変換可能な主格の「の」。
 

 冬暖の笹とび生えて桃畑 同

 冬暖「の」笹とび生えて―。ここを、「に」とすると立ち上がる世界が狭くなってしまう。「て」で軽く切れるため、冬暖「の」は笹を修飾するが、桃畑へ及ぶ働きをも感じるだろう。

 玉虫の死にからびたる冬畳 同

 玉虫「の」死にからびたる―。からびたる、は漢字で乾びたるである。「が」と変換可能な主格の「の」。

ぜんまいののの字ばかりの寂光土 川端茅舎

 植物の薇(ぜんまい)の姿形が平仮名の「の」に似ている点に着目し、薇だらけの神秘的な景を寂光浄土とみた句である。「の」の使い方は平易で、修飾する形である。

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