【私論】女を語る
本稿は「# 夏の読書感想文」のお題に沿って執筆する。即ち、この序文で言う「女」とは男女区別のそれではなく、芥川龍之介の著した同名タイトルの小説である。極めて短い作品のため、散文詩に分類しても良いであろう。発表は大正九年であり、故人が作家として活動した中期(二十代後半)に当たる。
このように書き出した動機をお察しの方は、河童忌と呼ばれる命日をご存知であろう。当方が読者諸賢に対する自己紹介と合わせて故人を偲んだのは、昨年の今日、七月二十四日である。
今年も何か―――と考えるうちに、冒頭のお題が目に留まった。ふと思い出したのは、学生時代の夏休みである。
ご多分に漏れず、宿題に読書感想文はお決まりであったが、当時から本稿の筆者は与えられた課題を無視しがちであり、勝手に物語の続きを創作するなどして先生に苦笑いされた。正直、まともに読書感想文を提出した記憶がない。理科の自由研究となれば尚更であり、小学六年時の研究テーマは火星人について。我ながら傑作であった。
さて、早々に脱線の気配を漂わせつつ、これより真面目に「女」を語る心づもりである。兄弟航路として交互に執筆を担当している弟は、読書感想に類似した「#推薦図書」のお題を幾度か利用しているが、筆者はこの類いに初めて挑む。大仰に言えば人生初の読書感想文であり、特に裏付けのない私論である。
まずは是非とも、以下の電子図書館にて「女」をお読みいただきたい。
女 芥川龍之介
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/120_15173.html
舞台は真夏の自然、主人公は蜘蛛である。雌蜘蛛(めぐも)という字面も、また音韻も禍々しく、「悪それ自身のような姿」を的確に表現している。前半の描写は、生きる上で必要不可欠な雌蜘蛛の業であり、捕食者としての残虐な姿である。
それでいて嫌な印象を受けないのは、芥川の高い技量に他ならない。弱肉強食の世界を流麗に描き出し、芸術へと昇華させている。
タイトルの「女」を見て分かる通り、雌蜘蛛はただの虫ではない。芥川の女性観と言うべきか、女の姿を投影していると考えるべきであろう。
無論、人とて捕食者であり、生きることは殺生と同義である。女が悪で男が善という構図にはならないが、時として、例えば色欲による盲目から覚めた時など、そのように見えてしまうことがあるやもしれない。
雌蜘蛛は醜い体躯として描かれている。女体の暗示か否か―――
仮に、美しい蜘蛛であったとしよう。筆者は妖艶な女を連想し、悪それ自身のような姿は成り立つと考える。美しいものの裏に醜悪なものが潜んでいるとの疑いである。
魔女狩りに代表される嫉妬を帯びた疑いは、文学史並びに人類史において数多く見られる。美人薄命という無根拠な言い伝えもこれに当たる。
源氏物語では、光源氏の美しさを「ゆゆし」と度々形容している。ゆゆしには、不吉や恐ろしいなどの意味がある。
本題に戻ると、美しく咲き狂っている紅い庚申薔薇が、女の容貌とも考えられる。その裏で蠢く蜘蛛が内面、或いは裏の顔という捉え方である。
雌蜘蛛は殺戮と略奪、言い換えれば日々の生活を繰り返すうちに、庚申薔薇の枝に白い巣をせっせと作る。そして、出来上がった巣の中に無数の卵を産み落とし、生まれくる子を守るために紗のような幕の天井を張り、外の世界を遮断する。それらの大事業によって雌蜘蛛、産後の蜘蛛と強調されたその体は、ひどく痩せ衰える。
ここで示されているのは、自己犠牲を伴う「母」の愛である。
子どもたちが無事に生まれると、老い果てた母蜘蛛は彼らを巣の中に押しとどめようとせず、逞しい巣立ちへと道を切り拓く。小さな子どもたちは先を競うように動き出す。
そして、巣の中は寂寞に包まれる。母蜘蛛は小さな窓の前で寂しそうに独り蹲る。真夏の自然の中、燃え尽きたように死を迎える。だが、その胸中を満たすものは、限りない歓喜である。
産所と墓とを兼ねた場所―――
「生」と「死」、「悪」と「愛」、このような両義性こそが本作の主題であろう。生が悪、死が愛と考えるならば、「女」と「母」を相反するものとして、そこに当て嵌めることが出来る。少なくとも、悪それ自身のような女にも、献身的な母性があることを示している。
ただ、生を悪とした場合、出産並びに「性」は悪の連鎖であり、愛をもって悪を生み出すことになる。
芥川らしい皮肉と捉えるか、別の見方をするかは人それぞれであろうが、無論、人はそれほど単純ではなく、複雑な多面性を持って生きているため、本作における女も、その両極にある二つの面を抽出したに過ぎないと考える。
また、背景にある芥川の生い立ちを無視するわけにはいかない。生まれて間もない彼が親戚の家に預けられたのは、実母の精神異常が起因である。狂人の母を持った運命は、彼を生涯苦しめたとされる。
僕の母は狂人だった。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。
この一文は、「点鬼簿」という芥川の自叙伝に近い小説の書き出しである。凡そ自身の回想に違いない。養母に連れられて実母と会った際は、いきなり頭を長煙管(ながぎせる)で打たれた、と記されている。平時はもの静かな、騒いだり暴れたりすることのない狂人であったようだが、まだ幼い彼にとって、実母が「悪それ自身のような姿」に見えてしまうこともあったのではないか。
実母を亡くしたのは、芥川が十一の時である。
くだんの母蜘蛛に話を戻すと、彼女は天職である出産を果たした後に潔く死んでいる。狂人の母を見たくなかったという芥川の思いが透けているようで、筆者はこの点に悲しみを覚える。
同時に、母蜘蛛の限りない歓喜こそが、本作の救いであると願う。悪それ自身のような女にも、親しみを感じられなかった母にも、自分を産んだ際には限りない歓喜、そして愛があったと。
筆者は本稿を書き上げた後、真夏の日の光を浴びながら「女」をもう一度読み返すであろう。出来れば自然豊かな場所を訪ね、声に出して一音ずつを味わうように読んでみたい。
この感想を芥川に伝えるとしたら、用いるべき伝達媒体は「蜘蛛の糸」であろうか。
令和三年七月二十四日
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