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【随筆】太宰治『感謝の文学』と私

 日本には、ゆだん大敵という言葉があって、いつも人間を寒く小さくしている。芸術の腕まえにおいて、あるレヴェルにまで漕ぎついたなら、もう決して上りもせず、また格別、落ちもしないようだ。疑うものは、志賀直哉、佐藤春夫、等々を見るがよい。それでまた、いいのだとも思う。(藤村については、項をあらためて書くつもり。)ヨーロッパの大作家は、五十すぎても六十すぎても、ただ量で行く。マンネリズムの堆積である。ソバでもトコロテンでも山盛にしたら、ほんとうに見事だろうと思われる。藤村はヨーロッパ人なのかも知れない。
 けれども、感謝のために、私は、あるいは金のために、あるいは子供のために、あるいは遺書のために、苦労して書いておるにすぎない。人を嘲えず、自分だけを、ときたま笑っておる。そのうちに、わるい文学は、はたと読まれなくなる。民衆という混沌の怪物は、その点、正確である。きわだってすぐれたる作品を書き、わがことおわれりと、晴耕雨読、その日その日を生きておる佳い作家もある。かつて祝福されたる人。ダンテの地獄篇を経て、天国篇まで味わうことのできた人。また、ファウストのメフィストだけを気取り、グレエトヘンの存在をさえ忘れている復讐の作家もある。私には、どちらとも審判できないのであるが、これだけは、いい得る。窓ひらく。好人物の夫婦。出世。蜜柑。春。結婚まで。鯉。あすなろう。等々。生きていることへの感謝の念でいっぱいの小説こそ、不滅のものを持っている。
(太宰治『もの思う葦』感謝の文学 青空文庫より)

 太宰の恥の書き方は、読者に新鮮な洞察を促せるほどに鋭い。
 私は『人間失格』『斜陽』をはじめて読んだとき、誰も言語化したことのないような人の心の”闇”を、”恥”を再認識できたように思う。私もこうだったかもしれない、と冷や汗をかくほどに。

 俳句にも人間探究派なんていう言葉があるが、太宰にしろ、芥川にしろ、人の深層を感得していると思う。たとえば、臨床心理士もその専門に違いないが、文学として言語化するとなると、それは、やはり作家の才能に違いない。

 太宰は、冒頭に引用したように、随筆『感謝の文学』で、マンネリズムを否定している。「ソバでもトコロテンでも山盛にしたら、ほんとうに見事だろうと思われる」と面白い例えだ。

 美味しいソバでも、やはり飽きてしまう。勿論、マンネリが悪いわけではない。周囲からマンネリと言われるほど、同じ型を実践し続けて会得することもあるのだ。
太宰の批判は、作家というよりも、社会が「ほんとうに見事だろう」と鵜呑みにしている点に向けられていると思う。

「けれども、感謝のために、私は、あるいは金のために、あるいは子供のために、あるいは遺書のために、苦労して書いておるにすぎない。人を嘲えず、自分だけを、ときたま笑っておる。」と、太宰は自己の恥を晒すわけである。この告白は、本文最後で「生きていることへの感謝の念」と結びつく。金に困っている人ほど、一日一日が濃密に思えはしないだろうか。

 そして、「民衆という混沌の怪物は、その点、正確である」と、読者、大衆の本質を捉えている。混沌なのに、正確という。私の理解は、民衆全体としては混沌なのだが、その中から、やはりいい作品が選ばれるという歴史(結果)、わるい文学は忘れ去られる点においては、正確なのだ、と。人の集団としての知は、もっと深い考察が世にあるに違いないが、簡単に考えてしまえば、たとえば食べ物においても、結局、美味しいものが残るのと似たような話だろうか。ただし、毎日同じ品を山盛りではいけない。

 また、「佳い作家」「復讐の作家」があるという。例えが、ダンテの神曲だったり、ファウストだったりするからイメージの把握になる。天国で書いている作家と、なぜか地獄で書いている作家は、なんとなくわからないでもない。太宰は、地獄なのだろうか?いや、天国で好き放題し過ぎて、地獄に落ちたのか。しかし、結局、天国の、祝福されたる人のようだったではないか。

 しかし、どうであれ、「窓ひらく。好人物の夫婦。出世。蜜柑。春。結婚まで。鯉。あすなろう。等々。生きていることへの感謝の念でいっぱいの小説こそ、不滅のものを持っている。」と結論している。

 あまりに格好いい。さすが太宰、と唸るしかない。ものに心情を託す。例として出ているどの言葉も、生きていることへの感謝の念でいっぱいだ。幸せにあふれている。

 酒や女という堕落にあっても、精神まで堕ちているとは限らない。主人公がいかに、不幸で救いようもないものであったとしても、感謝の念でいっぱいの物語であれば、後世に残るのだ。生きていることへの感謝の念をもって表現できる人がどれほどいるのか。

 私は、真面目に生きている部類に入ると思うが、生きていることへの感謝の念は、欠けているかもしれない。

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