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俺の仕事の話

「なんだかやっかいな事になったな。」

俺は、自分のデスクに戻ると大きなため息をひとつ吐き出し、天を仰いだ。1998年10月の、とある月曜日。新卒で飲食業を営む企業に入社してから2年目の秋を迎えたところだった。

まずは、ことの顛末から話そうか。

1998年9月のある日、福岡県春日市でレストランの店長をしていた俺に突然、異動の辞令がおりた。
辞令は、東京にある本部に戻って来いという内容だった。社内では不採算部門になっていたレストラン業態から、当時急成長していたテイクアウト業態への配置転換になったのだ。
レストラン志望で入社した俺にとってこの異動は本意ではなかったが、決まったことは仕方がない。後任の店長と引き継ぎを早々に済ませ、東京の実家へ引っ越した。

そして指定された日に本社に出勤し、新しい上司とオリエンテーションを行った。するとそこで、驚くべき事実が発覚したのだ。上司の口から発せられた言葉は、「君の担当エリアは茨城県ね、茨城県ぜんぶ。」

「藪から棒になにを言い出してるのだ、このおっさんは。」「それ先に伝えておくやつだろ。知ってたら茨城に部屋を借りたのだが… 」といった疑問と不信感が、一気に俺の脳内を埋め尽くした。

しかし、目の前に座っているこの呑気なおっさんと仲良くしていかないと、今後仕事を進めていく上で支障が生じるだろう。なにしろ、俺はテイクアウト業態など未経験なので、この人にいろいろと指導を受けながら仕事を進めなければならないのだから。
なんとか気を取り直して、精一杯のつくり笑顔で「かしこまりました。頑張ります!」と告げた。

そういった事情で、俺は頭を抱えていたのだった。


*

担当エリアは茨城県ぜんぶ。範囲としては、北は常陸大宮から南は取手まで。ほぼ茨城県の最北端から最南端の間を行ったり来たりして過ごすことになった。8時に家を出て日付が変わる直前に帰宅する生活が続いた。拘束時間は長いが、その多くは移動時間だった。

一日中自分の店で過ごしていた今までとは行動が一転し、調子が狂う。しかし、元々拘束時間が長い事には変わらないので、1ヶ月ほどで新しい生活スタイルにも慣れた。
それよりも苦戦したのは、肝心の仕事内容の変化についてだった。今までと扱っている食材は同じだが、業態が違う。これまでに積み上げてきた知識や経験を一旦脇に置いて、覚え直さなければならない事が山積みだった。

レストランとテイクアウト業態の間には、料理の提供温度やサービスの流れをはじめとして、様々な違いがある。その中で最も大きな違いは、お客様が食事をする時間と空間について作り手が主導権を握れるか否かだ。
レストランなら「注文と違う料理が運ばれてきた。」「肉が生焼けだ。」など、料理に対するミスはその場でお客様から受けることになる。その場で謝罪し、対応を行えるのだ。

一方でテイクアウトは、お客様がご自宅や職場など作り手の目の届かない場所で召し上がることになる。「コロッケが一個入っていない。」という電話を受けて、お客様の元までダッシュでお届けすることなど日常茶飯事だ。
しかもショッピングセンターに店舗を構えていると、お客様が車で1時間以上の場所にいたりする。必然的に1時間以上かけてお届けする事になり、1時間以上お客様も空腹の状態で待たされる事になる。腹が減っていると凶暴になるのは自然の摂理だ。待ちくたびれたお客様からこっぴどくお叱りを受けたスタッフは、出発してから2時間後、ゲンナリとした表情でお店に戻ってくるのだった。

入れ忘れならお届けすれば概ね解決するのだが、それ以上に気をつけなければならない事は衛生管理だ。
テイクアウトでは、購入したものをいつ召し上がるかはお客様のみぞ知るのだ。店舗が指定した消費期限や “冷暗所に保管” などといった注意書きを守ってもらえる保証はない。お客様の扱い次第で味にも変化があるが、一番怖いのは食中毒だ。
お客様がよほど酷い状態で保管しない限りは『料理』として成り立つものを提供するために、作り手は細心の注意を払わなけれなならないのだ。

とはいえ、仕事内容は経験に比例して習得できるものだった。それよりも、俺の目下の悩みは、部下(店長やスタッフ)とのコミュニケーションに関することだった。

じつは、部下のほとんどが年上の女性だったのだ。下手すると俺の母親よりも年上だったりする。明らかに人生経験では惨敗だ。また、彼女たちは理屈よりも好き嫌いを原動力として動く傾向があるようだ。
はじめのうちは、店舗に訪問してもあまり話してもらえない。それどころか、あからさまに避けられたり、なにか指摘をするとムキになって言い返されたりすることもあった。とにかく、まったく期待されていない。

それでもめげずにヒアリングを続けていくと、どうやら今までにこのエリアを担当したマネージャーたちはろくに現場経験も積んでおらず、店舗に来ても目先の数字のことを一方的に話すだけだった、という事がわかった。そんな上司の下で働いているうちに、店長たちのマネージャーに対する期待感は尽きてしまったのだ。
しかし店長にだって相談したい悩みもあれば、向上心もあるはずだ。少しでも力になりたい。なにを取っ掛かりにして、彼女たちと信頼関係を築けば良いのだろうか?
五里霧中の状態で、俺は自分に出来ることから進めていった。

まず、俺が店舗を訪問した時に店長やスタッフから質問された事については、ちょっとした事でもその場で本社の担当部署に電話して確認する様にした。
また、現場で店長たちが悩んでいる様子を目の当たりにして、その都度自分自身の体験に根ざしたアドバイスを送ったりもした。
次に、各店舗の繁忙期やイベントに合わせて泊まり込みで営業に参加した。売上を取るためには協力を惜しまないし、身体を張ることも辞さないスタンスを見せつけた。いわば、率先垂範だ。

3ヶ月ほどこのような行動を繰り返し、店長たちとも少しづつ信頼関係が築けてきたところで、切り札を投入した。
俺の強みは、店舗の問題点を数値化して改善することだ。店長時代にやっていた事をテイクアウト業態用にアレンジして取り組んだ。
たとえば、廃棄食材は計量し金額に換算する。廃棄金額が大きい食材から順に改善目標値を定め、対策を取る。人件費に関しては、労働時間1時間につき生じるコストを明確にし、使ったらその3倍の売上を取るなど。
これをスタッフ全員が理解できるレベルに噛み砕いて説明した。

こうして、俺が持っているものを使って自分に出来ることをひたすら繰り返しているうちに、担当エリアの業績は目に見えて改善された。
そして赴任半年足らずで、俺は新店オープンを担当させてもらえるまでになった。


*

このように、なんとか苦境を乗り越えることができた。そしてこの一連の経験によって、異性の部下と仕事をする上で最強の専門性を、俺は身につけたのだ。
それは、相手に「この人は、私の息子よりもしっかりしているな」と思わせることだ。

俺よりかなり年上の女性であり、しかもそのほとんどがシングルマザーである部下たちと向かい合って懸命に取り組んだ。
その結果『出来の良い(擬似)息子と、がんばり屋の母』という関係性が構築され、彼女たちの母性本能的な力が引き出されたのだ。


人に誇れるような大層な内容ではないが、紛れもなくこれが俺の仕事の話だ。



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