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【読書メモ】 『ソース焼きそばの謎』

読んだ。『ソース焼きそばの謎』

・ソース焼きそばは戦後に関西で発祥したという説が主流だったが、最近は戦前に東京で発祥したという有力な説が出てきた。最古のソース焼きそば証言は、対象末期から昭和初期頃の浅草。

・ソース焼きそばはお好み焼きの一種で、志那料理の「炒麺」のパロディとして生まれた。本来お好み焼きは和洋中様々な料理を模倣したパロディのカテゴリ名であり、お好み焼きという料理はなかった。その中で天ぷらのパロディである「◯◯天」が、現在お好み焼きと呼ばれるもの。

・開国から時が過ぎて徐々に関税自主権を得た日本は、輸入に頼っていた小麦粉を国内で生産するようになった。東武鉄道が小麦の大産地である群馬県と浅草を結び、隅田川を使った全国への物流網が確保されたため、明治33年に日清製粉の前身が創業した。

・しかし製粉各社が機械を導入し生産力を増強しすぎたために、小麦粉が過剰供給になり市価が急落した。東京下町の文字焼き(もんじゃ焼きのルーツ)の屋台が同時期にお好み焼きへ転業をはじめたのは、小麦粉が安価で手に入るようになった影響があるのではないか?

・明治41年に日本初の支那料理屋が開業。明治末期から大正初期にかけて支那そば屋台が増えた。当初は各自が小型製麺機で自家製麺していたが、大型の製麺機で大量生産した麺を小売りする業者が生まれた。この流れでお好み焼き屋台でソース焼きそばがメニューに加わり、やがて昭和10年頃には焼きそば単独の屋台か誕生し、店舗でも提供されるようになった。

・戦時下で屋台は姿を消した。ソース焼きそばが復活したのは戦後、昭和23年頃のヤミ市で、山の手まで広まって大人気を博した。焼きそばに必要な麺・キャベツ・ソースは、戦後食糧難の時代でも比較的入手しやすかった。

・戦後すぐには砂糖不足のためサッカリンなどの人工甘味料の使用が解禁され、ソースの原料に使われた。これを加熱すると苦みが出るため、ソース後がけスタイルが定着した。その後、濃厚ソースの発売や甘味料チクロの認可によるソース原料の変更で、焼きそばを炒めながら味付けするスタイルが復活した。

・関西でも戦前からソース焼きそばの存在は知られていたが、麺の入手が困難だったために普及せず、戦後に広がった。ただし関東で使われている蒸し麺ではなく、入手が容易だった固茹で麺を使うようになった。唯一、神戸の長田地区(お好み焼きのことを「にくてん」と呼ぶ)だけは茹で麺を使い、また戦前からの内蔵食文化との融合で「ホルモン焼きそば」が生まれるなど、独自の発展を遂げている。

・広島には麺入りお好み焼きの文化があるが、現在のスタイルが確立したのは昭和33年、麺を焼かずに生地に重ねるスタイルは戦後まもなくの頃から観測される。このように、西日本ではお好み焼き屋とソース焼きそばを両方とも提供している店が多い一方で、東日本では町中華の店のメニューの一つとして「ソース焼きそば」が提供されているパターンが多い。

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