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弱気な自分と向き合ってみる。

 殊更に強がっていたつもりはないのですが、長い間、本当に長い間、かなり無理を続けてきてしまいました。

 母は強し、と言いますが、子供を守らなくてはいけない、そういう気持ちが自分を駆り立て、子供のために必死な気持ちで生きてきた時間が本当に長くありました。

 そのことが自分自身を守ってくれた面も辛くさせていた面も両方あるように思います。

 もともとのそんなに強くない甘えん坊な自分が、今の私を苦しめています。

 もう1人、守ってあげなくてはいけないと思っていた母も亡くなってしまって、私の気持ちは更に弱さを増しているような気がします。

 そのことで、私はこんなに苦しんで、ちょっと太ってしまいました。

 だめですよね。

 だから今日からまた歩き始めようと思いました。

 とにかく何でもいいからチャレンジしてやってみようと思います。

 そうやっているうちに、自分が住むべき場所に住め、自分がするべきことができ、本当の意味でしあわせになれたら嬉しいと思います。

 私から何かを奪いとることで憂さ晴らしをしている、その人たちの心の中はあまり豊かでは無いような気がします。

 誰かから何かを取り上げることで満足しようなんて、自分のことが嫌いになってしまいそうです。

 私はそれをさせている人のことが嫌いです。でもその人は多分、私に嫌われても平気なのだろうと思います。


 私は強くはないけれど、きれいな心ではいたいと思っていて、ずるいことは出来る限りしたくないと思っています。

 ずるをして、自分だけが得をしようと思った人たちから散々ひどい目にあわされてきたからです。

 その時は得をしたように見えていても、それは最終的には自分をダメにしてしまうような気がするから、私はそちら側に流れていくのは絶対嫌です。

 だから、きちんとした理由もなく実家からお金をもらった事はないし求めたこともありません。

 私がずるいと言って困らせてきている人たちは、その人たち自身が他の人からお金を取り上げて楽をしたいと思っているんだろうと思います。

 本当にずるなんてしたいと考えた事はありません。

 変な言いがかりをつけて、私からものを取ったり、家に勝手に入ってきて、お風呂に入ったりお手洗いを使ったり、それを仕向けているのは多分、私から全てを奪い取ろうとして失敗した人だと思います。

 私から何かを取ろうとしなくても多分彼女は何も困らず、豊かな生活ができていたのです。

 でも彼女、が見当違いな誤解をして、私をねたんで具体的に困らせてしまったことで何もかもがめちゃくちゃになってしまいました。

 正直、許せません。

 だけど、それと戦うよりも穏やかな平和な場所を見つけて暮らして、本当に大切な人と一緒にいられるようになって、私自身がしあわせになってしまえば、終わることだと思っています。

 同じ時間を過ごすなら、前向きなことに努力をする方が絶対にいいです。

 無駄に戦う時間はもったいないです。

 他の人と戦うよりも、自分自身と戦って、本当に自分にとって良い状況を作ることが、自分の人生に勝つことにつながるような気がしています。

 私にとってのしあわせはひょんなことから出会えるような、ほんとにささやかなものだったり、思いがけずに出会えたものや手に入ったもの、そういうものの中にあるような気がします。

 しあわせは形ではないと思いますが、具体的な形があった方が気づきやすいからそう思うのかもしれません。

 私を困らせている人が、どうして私はねたむのか理解することはできないけれど、早くやめてほしいと心から思っています。

 今までの生活が何の我慢もなく、何の痛みもなく、送ることができていたわけでない事は子供も母もわかってくれていると思うけれど、私をねたんでいる人は私が何の苦労もなく、何の痛みもなく、生きてきたように考えているんだろうなぁと思います。

 たとえそうでなくても、何か変なことを考えて逆恨みをしている。

 気の毒だなぁと思います。


 そしてなぜだかわからないけど、その人が私をねためばねたむほど、私は自分の中にあるささやかなしあわせに気がついて、自分はしあわせなのだと実感できてしまうのです。

 本当に不思議です。

 私が、自分のしあわせに気がつけたのは、その人が私を信じられない位の激しさでねたんで酷い目に合わせ続けてきたから、そういう面もあるのです。

 不思議ですよね。

 だから誰かがうらやましいと言う気持ちになった時、相手をねたむのは、あまり自分にとってプラスの行動では無いのだと考えるようになりました。

 うらやましいと思った時、憧れの気持ちに切り替えて、その人のようになりたいと心の向きを前向きにして、自分が努力するための糧にするのが、自分にとって1番プラスの行動のように感じるようになったのです。

 そう、たとえどんな行動であっても自分にとってプラスの方向に活用することが大切なのだと、私が尊敬する先生も考えているに違いありません。

 憧れという言葉は、うらやましい気持ちを自分にとってプラスの行動につなげてくれるような気がしています。

 言葉には力があって、その時に使う言葉がその後の生活や行動を変えてしまうような気がします。

 私は言葉をできるだけプラスの方向に活用したいと思うのです。

 そして自分をちょっとだけ明るくて軽やかに運んであげて、そのことで大切にしてあげたいと思うのです。

 他の人が重たくても、暗くても、軽やかが好きだからそうしていたいのです。


 爽やかで軽やかで明るいって、いいですよね。

 私はそういうのが好きです。


 それはきっと、私が本質的に弱い人間だから、だからだと思います。

 暗さや重さに耐えられるのは強い人です。

 でも私は弱いから、軽くて明るくないとダメなんです。

 あまりにも暗くて重いと耐えられなくなってしまうのです。

 だから1番苦しかった頃、明るさや軽さを前面に押し出していたのは自分が潰されて身動きが取れなくなってしまって、子供や母を守ることができなくなってしまうのが怖かったからです。

 本当に苦しみました。

 そのことと真正面から向き合うことができなくて、ごまかしていたような気がします。

 明るくて軽やかな態度を無理矢理にとることで。

 苦しみと真正面から向き合うのではなく、その時の苦しい気持ちをごまかしてやり過ごすことで、その日その日をどうにか終わらせているような状態でした。

 しあわせとゆう言葉をたくさん使っていたのは、自分を潰さないための精一杯の努力でした。

 人と自分を比べてごちゃごちゃ行ったり、考えたりしないようにしていたのも、私にとってそれは無駄なことだし、わずかに残った気力や体力を消耗してできることまでできなくしてしまう原因になってしまうと思ったからです。

 他の人に理解してもらいたいとは思っていたけれど、それは無理でした。だから諦めました。

 諦めて、自分ができることをコツコツと努力することに専念しました。

 他の人が自分の都合の良いように変わってくれるのを待つよりも、自分自身が変わってしまって、その時々にできる精一杯のことを続けていく方が自分のためになると思ったからです。

 私は本当に長い間、子供のために生きてきました。その後は関わらなくてはいけなくなってしまった母のために生きてきました。

 そして、これからは、本当の意味で、自分のために生きていきたいと考えるようになりました。

 その具体的な形をどんなふうに作っていけばいいのかがわからなくて、今はとても苦しんでいます。

 だけど、きっとたどり着けるはずなんです。

 それを信じて、目の前のことを1つずつコツコツとやっていく。

 私にできる事はそれだけです。

 その時私を騙したり、邪魔をした人は、自分がした分の良くないことをずっと先に言ってからあがなうのだと思います。

 でもそれを実行するのは人間ではなくて、もっと別の存在。

 神様なのかもしれないし、悪魔なのかもしれないし、だから、それを私がする必要はありません。

 だから放っておけばいいような気がしています。


 感謝の言葉や感謝の気持ちが大切なのは、物事を当たり前だと思わないようにするためだと思うのです。

 私自身、そのことを徹底的にできているかというと、そうでもないと思うのですが、今かなり残酷な形で私を苦しめている人はそのことが全くわかっていないように感じます。

 でも、それを具体的にあがなうのはその人です。

 私には関係ないのです。


 私がしなくてはいけないのは本当の意味で、自分がしあわせになるためのことです。

 どうしたら具体的にそれを実行できるのか、そのことが私にとっての大きな命題で私が今しなくてはいけないのはそのことです。


 私は弱い自分と向き合って、その自分から逃げないで、苦しい気持ちも受け入れて、前に進んでいく努力を続けていくしかありません。

 子供のためでも、母親のためでもなく、自分自身のためにがんばる。

 私の1番苦手な事です。

 その苦手なことを克服するために生まれてきたのなら、今頑張るしかありません。

 怖いけど、がんばります。
 だから応援してください。

ありがとうございます。 嬉しいです。 みなさまにもいいことがたくさんたくさんありますように。