「ちょうどいい」を探しながら
「加減をつける」
加えたり、減らしたり。
少しずつ、少しずつ、調節をして合わせていく。
大雑把な私は「適当になんとなく」でいろんなことをしてしまうよくない癖を持っています。
お料理をする時も、きちんと計って作るのではなくて「その時の塩梅で適当に」というのが信条。
実際、その時によって家にある材料もまちまちですし、野菜とかそういうのひとつひとつ違うから同じにはならないですよね。
だから、その時の都合でちょうどいいところ、量、やり方を少しずつ加減しながら進めていく。そうやってどうにかこうにか生活してきました。
だからいつも同じようにはできないし、ならないし、行き当たりばったりになってしまうこともたくさんありました。
そのことで困ったこともありました。
でも私、予定調和は無理なんです。
息が詰まって続かなくなってしまいます。
そうして全然面白くないから、絶対にそういうの、できません。
思いもよらない発見や成果って、自由のある所にしか存在しないと思います。そして、そうでないとつまりません。
つぼみを無理矢理開いたり、花が散るのを凍らせて止めてしまったり、実が熟していないうちにもいでしまったり。
そういう自然に逆らったことばかり続けたら、おかしくなってしまうと私は思います。
ちょうどいい距離感で、ちょうどいい空間で、ちょうどいい加減をつけて自由を確保しながら生きていくのが一番健康的だと思うから、私はそうしていたいです。
もしもそうでは無かったら、息が詰まるし、あたらしい魅力的なものなんて何も生まれてこなくなります。
人間は型にはめて作ったお菓子ではないから、同じ形と大きさの枠にはめてしまうのは間違っていると思います。
図書館の書棚に並んでいるのは「本」で、「書いてる人」ではありません。
生きている人たちが生き生きとしてなかったら、そこから生まれてくるものが楽しかったりおもしろかったりするわけがありません。
軽やかなステップを踏みながら聴こえては来ないけどいつも必ず鳴っている美しい音楽に合わせて踊り続けているような文章が書けたら嬉しいと思うから、箱の中に仕舞われてしまうのは本意ではないと思っている人はたくさんいると思います。
そういう文書が書きたいし、読みたいです。
おとなしく納まり返っているようなものなんて面白くありません。
だからといって別に、センセーショナルなことを書きたいわけでもないし、読みたいわけでもなくて、生き生きとしたおもしろい、読んだら心が躍り出すような本当に魅力的な文章を読みたいし書きたいです。
そのためには、書く人が魅力的で生き生きとしていないとできません。
だから、その人にあったやり方で自由でいることが必要なのではないのかと思います。
自由に書いていたいです。
自分自身の「ちょうどいい」を探しながら、加減しながら。
ありがとうございます。 嬉しいです。 みなさまにもいいことがたくさんたくさんありますように。