母への思い
本を読むことがとても好きな子どもでした。
家にはいつも本があったし、図書館にも通っていました。
手触りや紙の香り、重み、そしてページをめくる瞬間。
本を読むことは文章を読むだけではなくて何かしらの体感を伴ったものでした。
そして無意識で文章に集中していく時の感覚は言葉で説明することのできない魅力だと感じていました。
引き込まれるというような。
本というものの持っている引力に引き込まれて行く時の感じは他のものでは決して味わうことのできないもののように思います。
その感覚を味わいたくて本を読んでいる人もいるのかもしれません。
本を読むことに集中している間は他のことを全部忘れます。
物語や文章の世界に没頭していると周りの雑音を気にせずにいられる効果もあるような気がします。
いろんないやなことを自分の都合で消してしまうことは出来ません。だから本の中の世界に逃げ込んでそういうどうしようもないものをやり過ごしてきました。
物語の世界には現実のような怖さはありませんでした。
もしあったとしても本を閉じて忘れてしまえばいいのだから簡単でした。
だから読むのがとても速くて何冊でも読めました。
読み飛ばしているような感じでした。
それなので、大人になってから子どもの頃に読んでいたお話を読み返してみると違う思いが読み取れて驚くことが多いです。
『赤毛のアン』の登場人物の思いを深く感じるようになったのも大人になってからです。
子どもの頃はただ文字を追いかけて全部読み通すことから始まって、その次は物語の中に出てくる知らないお菓子や飲み物や外国の景色。そういうものの味や色、風景や気候を想像して憧れを募らせていました。
そうすることでいろんなつらいことから自分を切り離していました。
アンに自分を重ねることもなくアンを取り巻く人たちに思いを馳せることもなくただ面白い物語として読んでいたような気がします。
幼かった頃の私はマシュウやマリラの生き方もアンの心もちゃんとは理解できていませんでした。
つらいと思っていたことも沢山ありましたが、本当につらいことなんてわからずにいたような気がします。
あらためて読み直してみると、作者の方がこの物語に込めた思いの深さと幅に驚くばかりです。
何も持たないやせっぽちで孤児のアンがしあわせになっていく道のりは読む人の心を救ってくれます。
そして静かな感動を与えてくれます。
読み返すたびに新しい発見があります。
だからこれからもまた何回も読み返してしまうと思います。
子どもの頃、忙しく働いていてほとんど会えなかった母は、なにも言わずに何冊もの本を私に与えてくれました。
それは仕事が忙しくて触れ合うことのできないことを埋めようとしてくれた努力の跡だと思います。
真新しい本を開いた時に感じた紙の匂いと硬く閉じた新品の本のページを開く感じは本当にしあわせな気持ちを私に与えてくれました。
そういうものへの感謝の気持ちを母に伝えたい。
そう思ってがんばってしまいました。
間違いだったのかもしれません。
誰も教えてはくれません。
困ってます。
ありがとうございます。 嬉しいです。 みなさまにもいいことがたくさんたくさんありますように。