見出し画像

怒りの醸造と戦いの日々:その実態

小さなモヤっとさんが生まれたので当事者研究をしてみました。

ちなみに私のことをあまり知らない人に自己病名紹介をしておくと…
私の自己病名は、「怒り醸造型 戦国武将タイプ やりすぎ症候群」です。
「怒り」という感情を何年も醸造し(腐敗でなく醸造なのがミソ)、人間にとって有益な状態に変化させ、その栄養素をエネルギーに、戦国武将ばりに戦ってしまう。常に命を賭けている。文字通り「やりすぎ」。
そして結果的に常に瀕死状態なのです。

今日のモヤっとさんの種類は、他者との関係性における不快さんです。
そこから研究してみたことを書いてみようと思う。

 不快さんが登場するとき(データ7名)
・相手が権威主義だった時
・相手の自己顕示欲の強さを感じた時
・相手の劣等感による拗らせが私にふりかかる時
・相手の偽善者っぽい言動やふるまいを見た時
・相手の他責思考の餌食になった時

 Q つまり?
不快さんの登場は、自己中心的な思考や行動、他者との比較や評価、内面的な不安や不満、などが原因で関係性に影響が及ぼされた時、それは、相手の評価や利益を守るために私が利用された時と言えるかもしれない。
たしかに、私は自分が大切にされない状態で他者に利用されることを嫌う。
(これは相手が無自覚なことがほとんどなのがキツい。それどころか大切にしているとさえ思っている場合が多い。)
私が大切にされている状態で私が利用される時には、そもそも利用されているなんて思わないし、喜んで利用されたい。

Q では、私が嫌う「利用される」ってどういう状態なのだろう?
その7名のケースに照らして考えてみた結果、
私は、相手の自己中心的な目的のために私の尊厳や価値が軽んじられたり、労力や成果が搾取されたり、感情や信頼が裏切られたりすること、をとても不快に思うらしい。

Q では、その人たちと私はどうなりたいのだろう?
あえて言葉を選ばずに正直に答えると「変わってほしい」し「改善してほしい」。その上で良い関係でいたい。
なぜ変容を求めるのかというと、感度も経験もマインドも知識も違うのだから想像力に乏しいのは仕方がないと慮るのは、慈悲的性差別だと思うからだ。
一方で、「変わってほしい」とか「改善してほしい」とか思ったりふるまったりすることは、「圧」や「マウント」という言葉で形容されてもしまうのだ。
以下堂々巡り。

Q なぜ、私はその人達に変わってほしいのだろう?
私は、自分も他者も「人」を単に手段として扱うのではなく、目的として扱うべきだ!!!(※決して二項対立で考えているわけではない)という例のアレ的な相当強い信念があるかもしれない…ありそう…いや、あるはず。
そしてそれだけでなく、悪い意味で理性にのみ忠実であろうとしすぎて妥協することが苦手なのだ。
二枚舌であることを悪だと思っている。『虎に翼』で、食糧管理法違反の事案を担当していた花岡さんが、違法である闇市の食べ物を食べることをすべて拒否し栄養失調で亡くなったエピソードを見た日「これ、あたしやん」と思ったし、私を良く知る人からも「志帆さん、死を選びそう」(誉められてない)とも言われた。

書きながら数年ぶりに研究がアプデした。
冒頭の、やるかやられるか、戦国武将ばりに何か(誰か)と戦っていて、常に瀕死状態な私は、ぼんやり社会と戦っているのかな?と思っていたのだが、そうではなかった。
私は、他者への怒りをきっかけにそれを醸造させ自分の糧にしながら、命懸けで自分を律する為に自分と戦っていたのだ。今の時点で一番しっくりくる。
6年くらい前から付き合っているこの自己病名が秀逸すぎる。
この自分とこれからも共に。

そら、血まみれなはずやな。わたし、欲望の鬼やからな。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?