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心地よい音楽と問いの狭間で揺さぶられた『悪は存在しない』

『悪は存在しない』を観た。
映画の情報も見ず、タイトルだけでジャケ買い的に観た。

結果、ここ10年で私が鑑賞した映画の中で最も私におちてきた。
この映画、言葉が少ない。
なのに、ずどんと。ずしんと。相当心地悪くおちてきた。
血がだらだら痛すぎた。

清澄白河の映画館「Stranger」は、UDCastを備え、障害や言語の壁を超えて映画を楽しむことのできる場所だった。オシャレなカフェも併設されており、その洗練された雰囲気の中で過ごす時間は、私にとって心地よいものであった。
にもかかわらず、一刻も早く猛暑の空気に触れ、その息苦しさをただ暑さのせいにしてしまいたくて、私は急ぎ足で映画館を後にした。

この作品は、人間が自然の中で生かされている存在であるという、油断するとついつい忘れてしまう前提を丁寧に映像と音楽で炙り出しながら、暴力性を切り口にハードな問いを投下し続けた。
ついつい考えたような気になれる、「善と悪」に逃げさせてくれなかった。
最後の最後まで問いで終わる。その問いを引き受けてしまったら最後、不確実さや不安定さを「わたしのこと」として向き合わざるを得ない。

この作品のキャッチコピーである「これは、君の話になる」は言い得て妙だけど、ならない人はならない典型的な類のやつだ。社会の構造と全く同じ。
あえてタイトルをフラットにしつらえてあるのは、逆にこの作品には強いメッセージがあるが故なのかもしれない。この作品を「わたしの話」として見るためには、ある種のリテラシーや態度や感度が求められるように思う。

「食えない恐怖」を克服するような謳い文句を掲げる資本には強い「力」を感じ、当然すがる。(中略)だから、この恐怖は今は漠然としたものに留まっているけど、連鎖していけば、裏帰るようにして過度な保身となって、他者に暴力の形で向けられていく。それは歪なパワーバランスを生み出して、時に戦争をはじめとする壮絶な人間社会の暴走につながっていくことがあるのだとも思います。

志賀理江子《霧の中の対話:火ー宮城県牝鹿半島山中にて、食猟師の小野寺望さんが話したこと》より

これは横浜トリエンナーレでの志賀理江子さんの作品で、私が心に留めておいた一節だ。この作品も、害獣をトピックに、自然の恵みを享受するとはどういうことかを私につきつけてきた。自然を大切にとかいう次元の話ではなく。これが絡み合って私の首はぎゅうぎゅうと締まっていった。

映画を見終わって5日目。ようやく落ち着いてきた。
(落ち着いている場合ではない。自分のこういうところが本当に嫌。)
人間だって生物なのだから、自然と共存とかいうのもおこがましくなる。
かくいう私という生物は、昨日も書いたが、止まらぬ欲望に狂う資本主義の権化である。そんな未完のわたしがこういう話をするのはどの口が言う案件で、このふるまいこそが私にとっては「最悪」なわけだが、でも、あえていいにくいことを書く用にこしらえたメディアでなら、やっとこさ吐き出せそうな気がして書いた。

これも意味があることなのかもしれないと思う根拠があるからだ。


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