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褐色細胞腫闘病記 第26回「ブラインド・ドクター」

4回目の手術の朝。
私の手術の時はなぜかいつも快晴だ。今日も雲ひとつない澄み渡った蒼色が薫る。

本来、こんなことには慣れたくもないが、4回目ともなると流石に手術への緊張感は薄くなる。手術直前の段取りから術後の運び、さらには退院までの流れがざっくりとでもわかっている。すなわち予期不安がほぼ無いからだ。

今回、メインの執刀医が棚沢教授でなはなく、外来で一度きりしか会っていない北野医師だということだけが気がかりだけれど、でも、その不安を払拭してくれたのが今、私の目の前で向日葵のような笑顔を向けてくれている芳河さんだ。

術後は消化器外科病棟に戻る予定だったが、私はみどり先生に頼みこんだ。
「もしここがまだ空いているならこのベッドに戻してください。芳河さんと同じ部屋がいいです」
「ああ、別に大丈夫ですよ。消化器外科はいっぱいだからかえって助かりますよ。ちょっと私が回診来るのに時間かかっゃうけどね」
みどり先生がにっこりしながら芳河さんを見る。
「お二人とも、とても気が合いそうですものね」
私は照れ隠しにえへへ、と笑い、芳河さんも同じ波長でえへへと笑った。


今回のオペは今まで開けたことのない箇所を切る。
左の脇腹を35センチ。果たして何針縫うことになるのだろう。小さくはない手術痕がまた私の体に新たに刻まれる。しかし幸いなことに、未開の地には癒着はない。その分オペ時間も短くなるだろう。それだけが救いだった。

壁に手を付くグリセリン浣腸、下半身剃毛とおへその掃除。ふんどし丁字帯を身に着けること。もう何もかもに慣れ、あれほどの恥辱に耐えていた私が、今ではもう特段恥ずかしいとも思わない。いやはや、本当に慣れとは恐ろしい。

私は手術着と手術帽を被ってストレッチャーに横になる。
またいつものクソ痛い安定剤の筋肉注射をされている私を見て、芳河さんが言う。
「ねぇ看護師さーん、いつも思うけどこの安定剤、そんなに心が落ち着くわけじゃないですよねぇ。いっそ廃止にしちゃえばいいのに。術前の患者にはこの激烈な痛みはすごいストレスよ」
小泉今日子に少し似ている看護師が注射器を片付けながら言う。
「みんなそれ言いますね。確かに手術前にこの量の筋肉注射は痛いですよねえ。私も実習で打ったことあるのでわかります」

家族が呼ばれる。夫と母と、娘の野乃子がストレッチャーに横たわる私の顔を上から覗き込む。
「ママ、がんばってね、のの、これを作ったのよ」
お、これは手作りのお守りだ。フェルト生地の真ん中に可愛らしい子熊が刺繍されている。
「わあ、ありがとう。中にお手紙書いて入れてくれたのかな?」
「うん、でもまだ中は見ないでね」
当然手術室には持ってはいけないが、私は一旦大切に胸にしまう。
「今回はあまり痛くないといいけどね。野乃子のことは大丈夫だから」
母が珍しく不安そうな顔を向ける。

そして夫は。
え~っと、さっきからどこ見てるのかなー? あ、看護師さんたち見てるんですねわかりますわかります綺麗だっり可愛いだったりよりどりみどりですもんね、それにめいっぱいキョンキョン好きでしたよねあなた特に。ええ、わかりますともその気持ち重々。

芳河さんがそんな夫の様子をじっと見る。
それに気づいた夫が彼女に如才なく話しかける。
「あ、いつも妻が大変お世話になっております」
おいおい、得意先に話しかけてんじゃないんだから、そんな型通りの挨拶やめてよ、と言いかけると、彼女がすかさず声を発する。

「芳河です。初めまして。旦那さん、こうこさんの手術終わるまで、ちゃんと祈っててくださいね。どうせまた成功するだろうとか油断してないでいてくださいね」
夫は一瞬顔をゆがめるが、すぐにいつもの営業スマイルを見せて言う。
「こうこ、お前はいいなあ、こんなに心配してくれる人がいて、なあ?」
夫の笑顔が凍っている。これは彼が不機嫌な時に決まって見せる笑顔だ。

野乃子が芳河さんに近づいて言う。
「私は、いのっています。ありがとう、おねえさん」
「三島さんのお嬢さん、可愛い♪ お名前聞いてもいいですか?」
娘が幾分緊張した面持ちで芳河さんに向かう。
「みしま、ののこ、といいます。6さいです」
「ののこちゃんね、おかあさん、絶対大丈夫だからね。これらかもずっとおかあさんのことを信じてあげてね」
野乃子ははにかんで「はい」と小さくうなずく。

キョンキョン看護師がストレッチャーのロックを外す。
「時間です。よろしいですか、三島さん。そろそろ行きますよ」
私は野乃子にみつからないようにそっともらったお守りを母に手渡す。
手術室行きのエレベーターの前までみんなが見送る。

この光景も、もう4度目だ。でも、今までと違うことは、ここに芳河さんがいてくれることだ。
芳河さんは電動車椅子を私に近づけて、そっと耳打ちする。
「いいこと教えてあげよっか。今度の三島さんの手術室の隣の処置室にね、男性の幽霊が出るんだよ」
おいおいなんで今の今、そんな話を?
「イケメンだって噂だから、会えたら顔、ちゃんと見てきて」
私はグーパンチを彼女に差し出す。もう笑うしかない。

「じゃ、行ってきます。みんなありがと。またね~(^^)/~~~」
私はひらひらと手を振る。
〈今生の別れ〉という雰囲気を絶対に、1ミリたりとも醸し出さないためにと、私は渾身の笑顔でみんなに手を振る。これも、4度目だ。
今度、みんなに会うとき私は、またひとつ「わるいもの」を削ぎ落して還ってくる。だから、この場での渾身の笑顔はきっと、大正解なのだ。

長い廊下を渡り、手術室につながる大きな厚いドアが観音開きになる。大きな音。これからが異世界だ。
モーセの十戒にしては行く手の距離が遥かに短いが、私はいつもここで割れ行く大海を連想する。甚だ不謹慎だ。

手術着を着たオペ看たちが出迎える。
キョンキョン看護師が申し送りをする。
私はいつにも増してきょろきょろとあたりを見渡す。
ほう、今度の手術室はいつもより広いし明るいな。学生の数も多いなあ。あ、芳河さんが言ってた処置室ってどこだろ? 幽霊って夜にしか出ないんじゃないのか? 麻酔かけたら見られるのかな。

おおよそ術前とは思えないようなことばかり考えている私に、オペ担当の看護師がかえって心配そうに声をかける。
「三島さん、そんなにそわそわしなくても大丈夫ですよ」
あ、そうか、これからオペだ。もっと真剣にならなくちゃ。私は少し反省する。芳河さんが余計なこと言うからだよ、とちょっと笑いさえ出る。我ながら慣れすぎだなこりゃ。いかんいかん。

いつものようにダンゴムシのような態勢で硬膜外麻酔のカテーテルを腰椎に入れ、いつものように「硬膜外麻酔の麻酔はないのか」と痛みに顔をしかめながら心の中で悪態をつく。
さてと、あとは全身麻酔だな。

・・・って、おい。

・・・・・・北野先生は?

執刀医はどうした執刀医は。

なんで第一執刀の北野先生がここにいないんだ。

「あの、北野先生は?!」
私は思い切り我に返って大きな声で問う。
「麻酔の後にお見えになります」
おい、お前は誰だ。麻酔科医か。初めて見る顔だな。
「今までは麻酔の前に執刀医の先生が顔を見せてくださってましたけど」
「北野先生はいつも麻酔がかかってからお越しになりますから」

なんだそれは。
私は外来で一回しか顔見てない医師に体を切られるのか?
必死でみどり先生の顔を探す。あ、いた。みどり先生がこちらに近づき、私に何か話しかける。
「あ、みどりせ・・・」

次の瞬間、私は深い深い麻酔の陥穽にすっぽりと落ちていた。

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