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褐色細胞腫闘病記 第12回「ようこそ、私のところへ」

棚沢教授が文字通り頭を抱えている。

机に両肘をつき両手で頭を抱え、うつむいてもう3分もうんうん唸っている。

私は結婚してすぐに妊娠した。
ハネムーンベイビーってやつである。今日の外来診察で喜び勇んで妊娠報告をした。

妊娠を報告されたら普通は「おめでとう!」と返ってくるものじゃないのか? なのになんなんだその反応は。どうしたの先生。

「私が…そうですね、私が妊娠は少し待ってくださいって言っていなかったのですよね…」
棚沢教授は私の顔を見ない。
えっ、おめでとうはどうしたの先生。
さすがに不安になり「あの、先生、私妊娠してはいけなかったのでしょうか」と問いかけると、先生は意を決して体ごとこっちを見る。

「三島さん、落ち着いて聞いてください。先月の検査で、左後腹膜と両肺に再発が確認されました」
「え…」まさか。オペしてから半年をやっと過ぎたばかりじゃないの。
「まだごく小さいものですが、ただ、今回はホルモンの分泌がとても激しいのです。これは妊娠によるものとも考えられます。妊娠を継続すると多くのホルモンが干渉しあい、血圧の上昇のため急変してしまうことも考えられます」
えっ、妊娠って普通は継続するものじゃん。「継続すると」って仮定を持ち出すのは変じゃない?

「妊娠中は使えるお薬も決まっています。おそらくこの腫瘍を抱えたまま出産した事例はまだ世界的にもないはずです。出産自体、非常に高いリスクを伴います」
棚沢先生が言葉を選んでいる。私は事態があまりうまく呑み込めない。

「あなたの命を守るためには、今回は赤ちゃんを諦めていただかなければならないかもしれません」
「もし出産した場合は…」
「三島さんが亡くなるか、赤ちゃんが亡くなるか、ということになるかもしれません。すべて私の責任です。妊娠をもう少し待つように伝えていなかった。私の責任です。本当に申し訳ありません」

棚沢先生が頭を下げる。まあ、そうよね、ハネムーンベイビーだなんて私も思ってもいなかったもの。
でも、こんなに赤ちゃんが宿ったことが嬉しいのに、私に頭を下げて謝るなんて変だわ先生。涙まで浮かべるなんて悪い冗談はやめて。

診察室に静寂が流れる。
私は棚沢先生から視線を逸らし、お腹に掌を添えて心で語り掛ける。
「おめでとうって言ってもらえないね… でも、おめでとうなんだよ、あなたが来たことは嬉しいことなのよ、大丈夫だよ」

その時、唐突に私の網膜に赤ちゃんを抱いて笑っている自分の姿が映る。
赤ちゃんは女の子だろう、ピンク色のおくるみに包まれて、ふくふくしたほっぺたで優しくこちらを見ている。
私はスピリチュアル系の話は嫌いだが、一瞬見えたこの光景のことは今でも不思議で説明がつかない。
でも、これはきっと赤ちゃんからのメッセージだと即時に強く感じた。

そうか、私は産める。私は生きて産める。

その後、何度も中絶を勧められたが私はこの時見た光景を頑なに信じた。
絶対産める。この、なんの根拠もない暴挙ともいえるような決意を、私は一度も翻さなかった。
当然、夫も家族も大反対。無謀だ、馬鹿だ、命を何だと思っているんだと毎日毎日責められた。
でも「自分が死んでも赤ちゃんは産む」というのではなく「私も生きる、赤ちゃんも生きる」と私は強く信じていた。
そう、本当に私は、お腹の中の子と会えることを絶対的に信じ切っていた。

そして、ついに棚沢教授が折れた。
「わかりました。全力を尽くします。出産は帝王切開で、我が大学病院の中枢クラスの先生を集めて出産体制を調えます。腫瘍摘出は出産後になります」

妊娠中、動悸と不整脈はあったが、血圧の乱高下は殆どなく、順調にすくすくと赤ちゃんは育っていった。
7カ月の時に女の子だろうという診断が下りた。あの時見た光景と重なる。これは絶対大丈夫、私は生きてこの子を迎えられる。

悪性褐色細胞腫を3カ所抱えながら出産をするという世界初の出来事。
でも、私はそんなことはどうでもよかった。
早くお腹の中の赤ちゃんに会いたくて仕方がなかった。

帝王切開術は大学病院の院長である、産婦人科の権威と呼ばれる医師が行った。小児科の教授が万が一に備えて赤ちゃんの救命の準備を調えてくれていた。
大勢の医師と助産師と看護師と薬剤師と医学生に囲まれて、私は血圧の乱高下を超え、命がけでこの子を迎えた。

赤ちゃんが私の横に来た時、私は麻酔で記憶がなかったが、とても満足そうに「やっぱりね」と言ったそうだ。
そう、この子の顔は、妊娠中にに見た光景の、ふくふくした赤ちゃんの顔と完全に一致していた。夫の父親にそっくりの、色白の茶色い髪の、小さい小さい2404グラムの女の子。

ようこそ、私のところに。ようこそ。

ほら、やっぱり会えたじゃんねえ。本当によかったね。

出産後、棚沢教授と梶並教授が私の病室にやってきた。
二人とも声を揃えて私に言った。

「おめでとう!」

それは、心からの祝福だった。

「やっと言ってもらえた。おめでとうって」私が笑って応える。
「やぁ、さっき新生児室覗いてきたけど、すっげ、かっわいいなあ。三島さんに似てないやんね」
梶並Drが軽口を飛ばす。本当に嬉しそうな笑顔を向けてくれる。
「この子も、三島さんもすごい生命力ですね」
棚沢教授が柔和な表情でゆっくりと話す。

「先生方には我儘ばかり言ってご迷惑かけました。先生方のおかげです。本当にありがとうございました」
私は心の底から御礼を伝える。
「我々も医療の原点がなんなのか、じっくり考え直す良い機会になりましたよ。三島さんの母としての強さを感じました」
そんな大げさな。私はただ産みたかったから産んだだけなのに。

でも、妊娠してから出産するまでの間、一瞬たりとも不安に思うことがなかったのは、我ながら不思議としか言いようがない。
しかも、この子は本当に育てやすい子だった。
無駄な夜泣きもしなければ、変にぐずったりもせず、病気の母をいたわるようにいつもニコニコしている赤ちゃんだった。
「この子ならこの母親でも大丈夫だろう」と神様が選別してくれた、そんなふうに思うほどだった。

ただ、私には摘出手術が待っている。
しかも2回。両肺の手術では肋骨を摘出するかもしれないと聞かされている。
いやいや、だいじょうぶ。ここで死ぬわけにはいかない。私は再び乗り越えるしかないんだ。

赤ちゃんが1歳になったころ、私は2度目、続けて3度目の手術に臨んだ。


photo by にのみやさをり
写真家。随筆家。1970年6月5日東京生まれ横浜育ち。個展「あの場所から」「幻霧景」「鎮魂景」等。写文集「声を聴かせて〜性犯罪被害と共に」(窓社刊)

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