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褐色細胞腫闘病記 第16回「私の、いとしいひと」

私の夫は、仕事ができる。

付き合っている間に彼の働く会社に連れて行ってもらったことがある。
夫は営業の仕事をしていたが、会社の壁一面には大きく〈売上成績表〉なるものがグラフと数字で掲示してあった。
成績は断トツのトップ、2位の人に4倍以上の差をつけていて、棒グラフは抜きんでていた。
なるほどね、コレを見せるためにわざわざ会社に連れてきたのか。だったら驚いて褒めてみせないといけないなと思いながら、私は故意に驚嘆の声を出す。

「すごいねぇ、シュウくん。独走状態じゃないの♪」
「うん、まあな。でも他の奴らがだらしないんだよ。こんなのまだ序の口」
何気なさそうに、さりげなさそうに言うが、褒められて満更でもない様子を見せる。

夫は本当に営業向きの性格だった。
人当たりが良く、第一印象は爽やかでまったく嫌味がない。人を惹きつける優しく、無垢な笑い顔と屈託のなさ。
だが、これは完全に「営業向け」の笑顔だった。

彼は人の話を基本聞かない。その理由はひとつだ。
「人の話をいちいち聞いていたら物は売れない」
「まあ、さすがやり手の営業マンだこと」と嫌味を言っても動じない。

彼は3歳で母親と死別している。母親の顔を知らない。
母親は脊椎カリエスという結核が原因が元で亡くなった。父親も、彼自身も結核に感染し、幼い頃は殆ど小学校に行ってなかったという。
父親は末っ子の彼を溺愛した。
そして彼も父親を誰よりも愛し、相思相愛の親子関係だった。
そして、私はいつも家の中で唯一の他人だった。

半年前に私の実父が肝臓がんになり、苦しんで亡くなった。
父は意識朦朧になりながら「あの男に金を渡すな」と言い遺した。
葬儀の日、私は親族として実家で忙しく立ち振る舞っていた。
だが、当然のように夫が言った。
「ね、俺の親父のお昼ごはんってどうすんの?」
「は? 出前でも取ってくれないかな、今日は」
「え…ここなんとかするから帰って飯作ってきてあげてよ」
私は心を無にしてチャーハンを作りに帰った。
母は激怒した。よりにもよってこんな時に、と詰っていた。
夫はどこ吹く風、いつもの爽やか営業スマイルだ。
「申し訳ありませんお義母さん。 親父はこうこの作ったごはんじゃないと気に入らないみたいでテヘペロ」と咄嗟の嘘。
なんなんだそれは。義父がいつも私の作ったものをこっそり捨てているのを私は知っているで。母は呆れている。

ある日、ママ友のひとりが私に囁いた。
「あのさ、これ、言うかどうか悩んでいたんだけど」
そう切り出された話の内容は、夫が隣の町のオープンカフェで女性と歓談しているのを見たということだった。
「営業職だからそういうことはよくあるのよ」と話を制した。すると彼女はこう言った。
「あの、別の場所でも見たことあるのよ、同じ女性で。それで」
舌打ちしそうになるのをこらえながら私は笑顔で先を促す。
「それで、何?」
「R子さんも、見たって言ってる」
はいはいそうですか、人の家庭に波風暴風台風何でもアリですね。
馬耳東風を決め込もうとしたら、決定的な言葉が翻った。
「手をつないで歩いていたの。で、車の中でキスしてた」

彼は良く「課長 島耕作」にソックリだと言われていた。
事実、最初にこの漫画を見たとき、あまりに顔がソックリで私は息を呑んだほどだった。
外面が良く、島耕作さながらに女性にモテる彼は、私と付き合っている時期も他の女性からアプローチされていた。
入院先の病院でも「三島さんの旦那さん、今日は来ないの?」と意味ありげに訊いてくる看護師もいた。
街を歩けば「カッコイイ!」「あ、いい男💛」と小声で言われる彼だった。
連れている私が冴えない女だと見ると「え、なんで彼女あんなん?」と失礼な言い方をされて私はひどく傷ついた。

私が彼に惹かれた理由は、そんな彼がちっとも幸せそうでなかったからだった。仕事もできて、カッコイイと褒められて、でも、ふとした瞬間に見せる表情は、まるで別人だった。なんでそんなにも暗いのか。
私ならうわべだけの彼の良さを評価しない。
きっと何か心に鬱屈したものを抱えているはず。
私は気になって、彼の話をよく聞いた。
おそらく彼はきっとここまで「内面」を見てくれる女性と会ったのは初めてだったんだろう、熱心に会いたいと言われる日が続いた。

そして今また、家庭では言えない鬱屈に耳を傾けてくれる女性が現れたんだろうか。子供好きの彼は野乃子のためなら死ねると口癖のように言う。
野乃子に恥ずかしい父親にはなりたくないと、鏡の前でヘアスタイルをセットしている。や、違うだろう、そのヘアセットは可愛い愛人のためのものだろう?
いったい何が不満で他の女性を求めるんだろうか。
嫉妬よりも何よりも、残念という気持ちがあまりに強く、私は彼に問い詰めることすらできなかった。

でも、今考えれば私も他の女性と変わらなかったんだと思う。

だって、見えていたと思っていた彼の内面もまた、すべて私の思い込みだったのだから。

夫からの給料は全額、律儀に毎月手渡されていた。
だがある時、フっと気づく。
そういえば、夫の給料明細を見たことがないことを。

彼に訊いてみた。
「給料の明細書ってないの?」
「うん、ウチの会社変わってて、出さないんだわ」
は? どういう会社だよそれ。
私はパートで経理の仕事もしたことがあるので、それが嘘だということはすぐに分かった。
翌日、私は彼に黙って会社の経理に問い合わせた。
なんと、給与はすべて振り込みだという。どの口座だ。私は知らない。
申告のためにどうしても必要だからと、夫には内緒で明細を再発行してくれと頼んだ。

書留で送られた明細には、手渡されていた給料よりも18万円も少ない額が記載されていた。ボーナスの金額は私には過少申告していた。余った金は女性に遣ったのかな。

毎月手渡されていた給料との差額の金はどこから出たんだろう。
そして、なんで妻である私にそんなすぐバレるような嘘を?
余裕のある生活だとぬくぬく安心していた私は、今まで嘘を見抜けなかった自分が悔しくて仕方がない。

そして別のママ友からこんな話が耳に入った。
「最近は市内のパチンコ屋さんに一日中いるってよ」
あんたは人の旦那を監視するほどそんなに暇なのかと言い返しそうになる。人の不幸を蜜にして明日の朝のトーストにでも塗りたくるつもりなんだろうか?

仕事サボってパチンコに興じている営業マンをかつてあれほどなじっていた彼。まさか自分でそんなことにはなってはいないだろうという気持ちがあったが、スーツに染み込んだ耐えられないタバコの匂いで、それはあっさりと私にバレた。

彼は重度のパチンコ依存症だったのだ。

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