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「自由意志論」(ジョナサン・エドワーズ著 森本あんり監修 柴田ひさ子訳)を読んで

 「人間の自由意志」という命題をめぐって、「人間には中立不偏の時、自由意志が在る」と主張する、オランダの神学者、ヤーコプ・アルミニウスに端を発するアルミニウス主義者に対する「自由意志論」に対して、神の絶対性を主張し、神による「不可抗的な恵み」を主張するカルヴァン主義者であるジョナサン・エドワーズがアルミニウス主義者のその主張に、逐一反駁していくという形態を取った、エドワーズによる1754年刊の「自由意志論」です。
 
 エドワーズはカルヴァン主義者として「人間の本性は堕落しきっており、必然的に罪に支配されている」という立場に立っています。これに対し反論するアルミニウス主義者の論調は、要約すると「道徳的主体(徳をなすことができ、善悪を判断することができる)」には「自由意志」が不可欠であり、「道徳的主体としての自己決定力」がある時にはじめて人は「賞賛」や「非難」に値する、というものです。それならば「意志」に「自己決定力」がなく、すべて神のご計画—摂理—によって物事がなされており、その「必然性」に人が統治されているならば、なし得ないと分かっていて神が人に働きかけ給うことは矛盾しているのではないか、というものです。
 そして、アルミニウス主義者はその「必然性」を神にまで適用させます。「人」が「道徳的主体」として意志決定をすれば、神の御心には必然性がないことになる。神の御心が必然的決定であるとすれば、「道徳的主体」となるための「必然性」に神が従属している、という論旨です。しかし、エドワーズは「人間は必然的に罪に支配されてはいるが、罪を犯す必然性はない」と主張します。
 
 結論として、エドワーズは「自由意志」なるものを認めていないわけですが、それというのも被造物に「自由意志」なるものを認めるならば、神は創造以来、人の「自由意志」に神が隷属する形で人の「自由意志」に左右され続けてきたことになり、人の背信ごとに失望を味わってきたことになります。そんなことは「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。(ヨハネの黙示録21章6節)」と仰せられた全知全能の神には相応しくないことで、エドワーズには考えられないことであるのです。 
 では、そもそもこの世に「罪」が入ったこと、アダムとエバが背信したことについて、エドワーズがなんと論じているかというと、「被造物の不完全性」、つまりアダムとエバが「不完全」であったためであるとしています。無論、この「罪の起源」をめぐっては、エドワーズ自身も「議論の余地がある」と保留にしていますし、「堕落前予定説」という神学の一分野でもあるようですが、エドワーズは語弊を招く表現であることを念頭に置いた上で神は「罪の創作者(罪が発生する状況を許す)」ではあったとしても、「罪の実行者」ではなく、そのなさることすべてが「聖なる行為」であると論じています。それは「人の視点」と「神の視点」との圧倒的な認識の違いに起因し、キリストの十字架刑も、人の視点から見ると史上最悪の犯罪であることになりますが、神の視点から見るとすべてに勝る、完全な「愛」である、「賞賛」に値する「聖なる行為」となるわけです。
 しかし、この「罪の創作者」という語弊を招く表現については、
「罪が神の主体的に影響をもたらした『結果』ではなく、むしろ一定の状況において神の御業と御力とがもたらされず、必然的に神の影響がもたらされないことによって生じるのである」としており、それは比喩として「太陽」を用いて論じられています。つまり「太陽の運動」によって暗くなったり、寒くなったりするからといって、太陽がそういったことの原因ではないことと同様に、神のいかなる行為も人に積極的に罪悪をもたらす原因とはなり得ないということです。
 
 本書はかなり難解で完全には読解できていないですが、エドワーズのカルヴァン主義に立った激しい論調をして思ったのは、神に対する、神から差し出された「抵抗できない恩寵」への「愚直」とも言えるほどの唯一なる「神への帰依」ということです。それは、「神がなさることは万事、聖なる行為であり、道徳とは神の領域である。堕落しきった人間が神のなさる『聖なる行為』に対して異議を差し挟む余地はない」とする、人間の「不完全な被造物」としての「絶対的な帰依」の立場です。
 それでも、この「帰依」はキリスト者には「絶対的な救い」と「安全」を示すであろうと思います。それは訳者の柴田ひさ子さんが「神の『必然』とは『最善』であり、運命論とは別のものである」とする記述を「収穫であった」と評しているように、この世で如何なる試練や患難がキリスト者に訪れようとも、「聖徒の堅忍(クリスチャンが信仰を生涯貫くこと)」を以て、やがて来たる「浄福の生」を見据えた意味での「絶対的な救い」という「恵み」においてです。「永遠とは、限りない生命の、全体的で同時の、完全な所有である」、エドワーズが引用したボエティウスのことばですが、自分が「神という永遠」に所有されているとは、なんという救いでしょうか。

 私はキリスト者、クリスチャンになる前は救いがたい「放蕩の罪人」でした。それは今も変わらず、依然として神にとっては憐れむべき存在であることには変わりはないでしょう。
 しかし、神に「肉薄」され、神による一方的な「選び」にあずかった身としては、やがて来たる「浄福の生」、「限りなき永遠」を見据えて、カルヴァン主義でいうところの「聖徒の堅忍」を以て、一刹那ごとに起こる「神のご計画」をありがたく享受し、神から与えられた地上での「仕事」、「任務」をひとつひとつ全うしていきたく思いました。
 

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