不器用と福音
おれはMBTIだと、何度やってもネガティブな検索候補ばかりがつきまとう、悪名高いINFPが出る「ザ・INFP」で、それもそのはずマジで要領が悪すぎんのよ。
それは1年間のあいだだけで、フルタイムではないけど農夫やってた時なんかはまさにそうで、良かれと思ってとっさに取った行動がことごとく裏目に出るタイプのようで、
動けば「動くな!」、動かなければ「動け!」
そんなことを言われてばかりいた。
でも、これはあくまで基本的には「仕事」にかかわってくる時だけなんだけど、プライベートでも要領の悪い時はひんぱんにある。それはたとえば、最近読んだ本の書評とか所感をとっさに求められた時、つまり
「それを今ここで、リアルタイムで『ことば』にして」
と求められた時なんかは、三島由紀夫の、そのリリカルでありながらロジカルな語り口なんて絶対マネできっこないのに、いくばくか三島由紀夫を憑依させて、もったいぶって話し出したはいいものの、結局うまくまとめられずに
「あれ?⋯⋯おかしいな、何が言いたかったんだっけ⋯⋯っていうか、ホントにマジでテメエは何が言いたいの」
って、果ては要領の悪い自分自身を憎悪してるあいだに会話のパラシュート出すタイミング間違えて、結局そのまま地面にズザザザー!
みたいなことで。
そうは言いながらも「仕事」では、「社会」では「致命的短所」とされる「要領の悪い部分」を、仕事以外の時間では、むしろ好意的に、積極的に面白がってくれる——半分小馬鹿にされてるのかもしれんけど——友人がいるのは、じつにさいわいなことで、かくいうおれ自身も、こうして自嘲しながらも、バスが無かったからといって、古川駅から草履履き徒歩で約2時間半かけて、大崎市三本木の『ひまわりの丘』まで行って、結局不作で一輪も咲いていなかった末に
くたびれて草を枕に雲の峰
という、悔しまぎれに昇華した一句を詠んでは「したり顔」するような「自分」というものを、
「社会的(会社的?)には忌むべきもの」
として認識しながらも
「個人的には祝うべきもの」
として自認している、
⋯⋯というよりも、
「そんなこと言ってられるのは、テメエが世間知らずの○○で、○○だから、そんで、ついでに○○で、○○で、○○だからで、だからテメエは⋯⋯」
と、うわべは「おだやか」そのものの、多くのINFPに多かれ少なかれ共通するであろう「サディスティックな内的カースワード」が、ほとんど自傷行為同然に我が身を切り裂いてゆくので、そういう自認でもしなければ、
「社会的(会社的?)には忌むべきもの」
どころか、
「個人的にも忌むべきもの」
と化し、アイデンティティーが崩壊してしまいそうなので、そうせざるを得ないのです。
⋯⋯と、この文章を書いているあいだにも
「⋯⋯世界には、世の中には、そんな取るに足らない、心底くだらないことにうつつを抜かしているヒマも無い、食うにも飲むにも困っている人たちが⋯⋯かたやテメエというゲスのクソヤロウは⋯⋯」
⋯⋯と、だれからもそんなこと言われていないのに、なんだかそんなことを言われているような気がして⋯⋯やはり自身のことは「社会的にはどうあれ、個人的には祝うべきもの」として認識でもしなければ、いろいろな意味で危うい気がしてきました。
——追記——
なんだか「自分の要領の悪さ」を面白おかしく自虐的に笑い飛ばしてやろうとしたところ、思いのほか深刻になってしまいました。友人にはノンクリスチャンの方もいらっしゃるので、宗教的な要素はまじえずに書きましたが、
「社会的にはどうあれ、個人的には祝うべきもの」
という一節の背後に「福音」が響いていなければ、それは「世の相対的な価値観」のもとに、とっくに崩れ去っていたと思います。
私はしばしば近しい人には
「クリスチャンになっていなければ、自殺しているか、犯罪者になっているか、そのどちらかだったと思う」
と打ち明けることがあります。この表現にはご批判もあるかと思いますが、ここでいう「犯罪者」というのは、なにも「実際的な犯罪」のことだけを意味するのではなく、きわめて「犯罪者に近しい心理状態」におちいっていたであろう、という意味においてです。
「そんなに恵まれている環境にいやがったくせして、自殺だ? 犯罪者だ? 甘ったれるな」
という声が聞こえてきますが、仮に「福音を知らなかった世界線の私」というのは、個人的にはその2択しか考えられないほどの状態にあったということです。ですから、しごく「不真面目なクリスチャン」ではありますが、今の私が在るのは、じつに「福音」の恵みにほかならないということ、それだけは主観的にも客観的にも「たしかな真実」であることだけは、声を大にして言っておきます。
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