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(掌編)ゆりかごに乗った虎

 流氷といえば大きな白熊を思い浮かべますが、野うさぎを追う内に誤って流氷に乗ってしまった、年老いたアムール虎のお話です。

 さてさて、それはそれは寒い夜、その年老いた虎は小さな物音に目が覚めました。チッチッチッ チ、チ、チ チッチッ とかすかに音がします。その音は野うさぎの鳴き声に間違いありませんでした。その年老いた虎はもう何日も食物にありついていませんでした。

 その音が野うさぎの出す警戒音だと気づくと、瞳は血走り、かすかな光、わずかな空気の動きも逃すまいと、ありったけの力をその音のする方に向けるのでした。

 チッチッチッと音はそぐそばに来ています。その年老いた虎は後ろ足を少しだけ動かしてみました。最近は気持ちに体がついていかないことが多いのです。そのため、気ばかり焦り、それに伴って体が動かないために獲物を取り逃がしていました。それで後ろ足を少しだけ動かしてみたのでした。幸いまだその野うさぎは気づいていないようでした。

――いまだ!

 そう心の中で叫ぶと、一気に後ろ足でジャンプしました。大きな黒と黄の物体が野うさぎに襲いかかりました。野うさぎはスッと身をよじると、タッタッタッと数メートル先に逃れました、そして、憎たらしいことに、こちらを見ながら立ち止まっているのでした。それは明らかにその年老いた虎の力量が野うさぎを捕らえるにはもう十分ではないことを確信しているようでした。

 虎は、(まだ威厳を持っている、その虎は)もう一度後ろ足に力を込めました。しかしそのわずかな動きに気づいた野うさぎはまたスッスッと動いて数メートル先で止まりました。

 その虎はもう一度、今度は前足の伸ばしてみました。野うさぎがチッと小さく叫んで一歩だけ後ずさりしました。前足を伸ばしただけだけではとても獲物を捕らえることはできないことは、虎は自分でも気づいていました。虎は、(ああ、もうあの逞しき威厳さえなくしてしまった)その虎は、まともに動きもしないその前足をジッと見つめました。

 野うさぎがチッチッチッと音を立てながら、年老いた虎から遠ざかって行きました。虎はゆっくりとその音の方に歩き出しました。虎は野うさぎのチッチッチッという音に小躍りした若い頃を思い出しました。前足を(それが右だろうが左だろうが)ひょいと動かすと野うさぎはコトンと倒れました。野うさぎはだただ若い虎の威厳に失神したのでした。若い時はそうやって、たやすく獲物を得ることができました。

 その年老いた虎にとってはチッチッチッというその音こそ生きる証だったのです。

――この野うさぎを手に入れば私の体はまだ十分に使える。

 虎は自分にそう言い聞かせました。またこうも言い聞かせました。

――もし若い頃には一瞬にして仕留めたこんな野うさぎを捕まえることができなくなっているならば、俺ももうおしまいだ。

 野うさぎはトントントンと飛びながら、前を行きます。野うさぎの前には海が広がっていました。その海には流氷がギシギシ・ギシギシと音を立てていました。野うさぎはその流氷の上に飛び乗ると、またチッチッチッと音を立てました。その音に誘われるように年老いたその虎は流氷に乗りました。野うさぎがトントンと飛び跳ねると、虎がのっしりと後を追いました。そのたびに流氷がちょっと傾き、流氷のまわりの海水に波紋が広がりました。

 流氷はもうずいぶんと陸から離れていました。その時です。野うさぎはトォーーーと思い切りジャンプして、隣の流氷に飛び移りました。虎も(もうすっかり威厳をなくした)その虎も、隣の流氷に飛び移ろうとしましたが、流氷の淵まで来て立ちつくしました。もうその年老いた虎が飛べる距離ではなかったのです。流氷と流氷の間には紺碧の海にゆっくりと波紋が広がっているだけでした。

 もうチッチッチッという音も聞こえなくなってしまいました。虎は(ああ、なんという惨めな)その虎はもう二度と獲物を捕らえることが出来なくなってしまいました。

 虎を乗せた流氷がゆりかごのようにゆっくりと動きました。ゆりかごに乗ったその虎を近く遠くの星々がチッチッチッと音を立てながら照らしていました。


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