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帽子

 帽子を川に流してしまおうと、何度橋の上で立ち止まったことだろう。

 しかし、帽子を頭から取ろうとしても、帽子は頭に深くくい込んでいるのか、微動だにしない。そして、幾度か試して、今回も帽子が頭から離れないのを知ると、うなだれながらゆっくりと歩き出すのだった。歩きながら時々見下す川面には、岸の水草の間に有象無象が、あるものは引っかかり、あるものは漂い、流れたくても流れない、とどまりたくてもとどまれない、そんな光景を呈していた。

 いつごろからこの帽子が頭にくい込んでしまったのだろうと、思う。物心が付いた時にはもうこの帽子をかぶっていたような気がする。自分で帽子をかぶった記憶は無いのだが、気づいた時にはもうかぶっていた。

 最初の内は、その帽子も快適だった。5歳くらいのころだろうか、帽子をかぶって意気揚々と外に飛び出していった記憶がある。その帽子は自分が自分であることのシンボルだった。自分が自分であるための誇りだった。帽子があれば何でもできた。そんな気がした。帽子があれば空さえ飛べる気がした。

 学校に入ると、少し様子が変ってきた。他の人の帽子のことが気になりだしたのだ。ある子の帽子は黄色だった。黄色の帽子は珍しかった。だから、その帽子を見るたびに欲しくなった。手に取ってみたくなった。 黄色い帽子をかぶっているのは女の子だった。ある時、その黄色い帽子に後ろからそっと手を伸ばしてみた。その時、「なにするのよ!」と、その子は怒った。もしこの時この子が怒らなかったら、それからの人生もずいぶんと変ったものになっていただろうと、今は思うが、それもまた、自分勝手な思いだと思い直す時、 いっそう陰鬱になってしまうのだった。

 それでも中学、高校になると、たびたび怒られ、嫌がられながらも、他の人の帽子が気になりながらも、自分の帽子の良さも見直すような出来事もわずかながら感じることもできた。この帽子と一生つきあっていかなければならないという、覚悟のようなものが、おぼろげながらも出てきた。

 また逆に、無性に自分の身を破滅させたくらい帽子がいやになることもたびたびあった。その時から、橋を渡るたびにかぶっている帽子を川に流してしまおうと思うようになった。その時から自分自身をさえ、川に流してしまおうと思うようになった。その時から、この世さえ、なければいいのにと思うようになった。世の中を消すか、自分が消えるかのどっちかなのだと、思うようになった。そう思えば思うほど、自分の帽子が嫌いになり、人の帽子が良く見えるのだった。

 そういうことを繰り返すだびに、帽子をひっぱったり、たたいてみたり、ハサミで切ってみたこともあった。しかし、不思議なことにその帽子はちょっとだけ傷が入るだけで、帽子を頭から取るはずすことはできなかった。帽子はほころび、ところどころには切り傷ができ、色はあせ、もうボロボロになってしまった。

 そんな日々を過ごしていたある日、とても素敵な帽子に出会った。その帽子は淡い紅色にところどころ花柄のある帽子だった。自分がかぶっている帽子とは比べものにならない美しい帽子だった。出会ってすぐ、その帽子に触ってみたくなった。いや、触れなくても見ているだけでよかった。とにかく、ずっとそばにいたかった。それは、自分の帽子の貧弱さを忘れさせてくれた。自分の帽子を川に流そうとしたことさえ、「罪」ではなく、自然なことなのだと、自分を肯定できた。その帽子とこれからもずっといっしょにいたかった。

 それから何ヶ月経った時だろうか。その素敵な帽子が急に見あたらなくなった。似たような帽子はあった。淡い紅色にところどころ花柄のある帽子だ。しかし、よくみるとその帽子は以前の帽子とは違っていた。花柄は歪み、傷つき、淡い紅色にはところどころに染みがあった。以前には気がつかなかったのだろうか。もう触ってみようとも、ずっと見ていたいとも思わなかった。それよりももう近寄ることさえ、嫌になった。その帽子が実は自分の帽子と同じようにボロボロなのだと認めることが嫌だったのだ。
 
ある朝、久しぶりに帽子をかぶった自分の姿を鏡で見てみた。その時、鏡に映ったのは帽子だけで、自分の身体は映っていなかった。私は「そうか!」と思った。

 この帽子が実は自分そのものなのだ。人生そのものなのだ。この帽子こそ、自分自身なのだ、と思った。帽子をかぶっているこの身体が自分なのではなく、それは単なる物体で、この帽子が自分自身なのだと感じた。その時、この色あせ、傷ついた帽子が、今かぶっているこの帽子がとても愛しく思えた。そして橋の上から、帽子を流そうとしたことが(自分自身を流そうとしたことが)とても哀しいものに思えた。

 その時から例の花柄の帽子も同じようにとても愛しいものに思え、急にまた会いたくなった。

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