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伊吹和子著『われよりほかに――谷崎潤一郎最後の十二年』

今回は、伊吹和子著『われよりほかに――谷崎潤一郎最後の十二年』(書籍だけでなく、録音資料もありますね。国会図書館には視覚障害者用に登録されたデジタル資料もあります。)を取り上げます。

2022-09-03
本へのリンクを外に出しました。


「われよりほかに」とは

タイトルは、『雪後庵夜話』に書かれた、

我といふ 人の心は ただひとり
 われよりほかに 知る人はなし

谷崎潤一郎著『雪後庵夜話』

という谷崎の歌から取られています。

※2022-09-03
本へのリンクを外に出しました。

著者が突如クビを言い渡されたときに、中央公論社の嶋中社長が

また先生の気紛れですなあ、この忙しい最中に、先生のわがままに、いちいちつきあっていられますか、と、鼻の先で一笑に付し、
……まあ、四、五日待ってごらんなさい、きっとお呼び出しの電話が来ますから。え? その時はもう御辞退いたします、ですって? そんなこと言ったって、そりゃ駄目だ、先生の相手が出来るような変な人は他にいないもの。電話が来ないうちに、せいぜい他の仕事を片付けておかないと、あわてることになりますよ……。

伊吹和子著『われよりほかに――谷崎潤一郎最後の十二年』

と言われてその通りになったこと、また、そのようなことが何度も繰り返されたことからのものと思われます。

著者と谷崎

著者は、『源氏物語』現代語訳の時から谷崎が亡くなるまで秘書を務め、谷崎の死後は川端康成の秘書を務めた人です。
中央公論社に入ったのも谷崎の都合という面が強く、編集者として関わった作家たちの中でも谷崎はかなり異質で、著者にとっては心外なことも多く、複雑な感情を持っていたことがうかがわれます。

谷崎の話し方

一方、京都生まれ京都育ちの著者は谷崎の話し方が面白かったらしく、そのまま物まね調に表現します。そのためか、この作品が東京新聞に連載されている時に谷崎の末弟終平さんが「生前の兄の肉声を聞くようだ」と手紙を送ってきたことが「あとがき」に書かれています。

たとえば、

口述筆記の際の注意として、よそ見をせずにじっとこちらを見ていてほしい、書き終わったらハイとはっきり言って、またこちらを注視してほしいと言っていたにもかかわらず、ある日

「あなたね、そんなにじっとこっちを見ないで下さい。どうも気になって仕方ないじゃありませんか」

伊吹和子著『われよりほかに――谷崎潤一郎最後の十二年』

と言われ書き終わって「ハイ」と言ったら

「そんなにいちいち返事をしなくたってよござんす。書き終ったら、黙ってこっちを向いていてくれりゃ、いいんです」

伊吹和子著『われよりほかに――谷崎潤一郎最後の十二年』

と言われて困ったという記述があります。

一方、谷崎のかわいい一面をのぞかせるものもあます。もうじき夕食という中途半端な時間にお腹がすいた谷崎に松子夫人が洋菓子店にケーキを注文したとき、それも待ちきれず、

「あんまりお腹がへったから眠くなっちまった。お菓子が来たらそ言っとくれ」

伊吹和子著『われよりほかに――谷崎潤一郎最後の十二年』

と言って寝てしまい、ケーキが届いたらしい様子が聞こえると、夢うつつの中で

「ああ、たべるよう」

伊吹和子著『われよりほかに――谷崎潤一郎最後の十二年』

とつぶやいて、そのうちにガバッと起きてきたと思ったら、立ったまま、普段は「あんなもの嫌いだよ」ということになっているバタークリームのたっぷりと載ったショートケーキを、一個ずつ両手に掴んで、むさぼりながら廊下を歩きまわり、二つとも食べ終わると、バターまみれの手をべろべろと舐めて、あとは浴衣の裾で拭いてしまったというものとか。
谷崎のしゃべり方のトーンは、Youtubeに本人が自作の朗読をしているものがあるので、お聴きになるとイメージしやすいと思います。

創作の過程と隠されたヒント

この本はだいたい時系列に書かれていますが、それでも、たとえば『夢の浮橋』についての記述を調べようと思うと、あちこちに書かれているのでチェックが大変です。が、作品を書いている時の話が書かれているわけで、後で、ああ、そういうことかと気づくようなヒントが埋め込まれているのは、これまで取り上げてきた本と同様です。特に人間と動物のダブルモデルの手法は、この本の中にしっかりと表現されています。
人間のモデル同士の関係や谷崎の家庭内に「紛紜」を起こす手法は『谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡』や『谷崎潤一郎の恋文とを併せて読むと、さらにわかりやすくなります。
谷崎家では、日記ならぬ手紙(いや、おそらく日記も。これは亡くなった時にはどこかへ移動されていた模様。こちらも後に出てくるのではないかと思われます。)を巡って『鍵』さながらのことが起こっていたようです。松子夫人が密かに読んでいたり、取ってしまったりしたものもあるらしく、実際、手紙を取ってしまうことがあるということは、瀬戸内寂聴著『つれなかりせばなかなかに―文豪谷崎の「妻譲渡事件」の真相』の巻末にある和嶋せい子さん(『痴人の愛』のモデルとされる人)との対談で松子夫人本人が言っています。

特に、松子夫人が新しいホルモン剤を試して不正出血をしたときに、ホルモン剤のせいだとはまだ知らない谷崎が著者を呼び出した時のこととか。
谷崎は、症状からみて松子夫人が癌かもしれないといい、

「しかし、家内がそういうことになると、どうしようかと思って、それで途方にくれちまって……こんなことを気兼ねなく言えるのは、あなたっきりだから……」

伊吹和子著『われよりほかに――谷崎潤一郎最後の十二年』

とひどく不安そうに言い、その頃から松子夫人よりも谷崎の方がまっすぐに終末に向かっていく様子が書かれています。
ただ、往復書簡を読むと松子夫人がなぜ新しいホルモン剤を試そうとしたかということも見えてきますし、だとしたら谷崎もそれを知っているはずだと思いますし、呼び出した宿泊先とか、その時の部屋の温度とか、そういう谷崎を見ての著者の思いから、いろいろなことが想像されます。

松子夫人と女性たち他

この本では、全体を通して、松子夫人とその妹重子さん、千萬子さん、それから次々現れるお手伝いさんとの間で繰り広げられるいろいろなことが描かれていきます。それらの女性だけでなく、谷崎の役に立つ人全般に松子夫人の嫉妬の矢は向かっていたようです。松子夫人が、谷崎作品の第一のモデルであり、谷崎が作品を書くにあたって一番重要な人間であり続けようとすることによって妻の地位を守り通した、そういう記録としても読めます。

他にも、この本についてTwitterや、ラブレターズという私の別のサイトの記事もご覧いただけると嬉しいです。





小林さんのメモ――『われよりほかに』補稿

今回この記事を書くに際して見つけた記事があります。
小林さんのメモ――『われよりほかに』補稿です。今現在当該雑誌がアマゾンでは見つかりませんが、いずれ入手したいと思っています。

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