人は落ち込んだとき、やがて宝物を手に入れる。

失恋すると食欲がなくなるという人がいる。

かなしいかな、私は失恋しようが悲しいことがあろうが食べることへの欲求は失せたことがない。

むしろ食べ物はそういうとき、手っ取り早く私をなぐさめてくれる。

そんな私でも、多くの人がそうであるように落ち込んだとき「あまのじゃくな自分」と出会う。

誰かに話を聞いて欲しい、誰とも話したくない。
誰かに会いたい、誰にも会いたくない。

どこでもいいから出かけたい、どこにも出かけたくない。とにかく書き殴りたい、何も書きたくない。どっぷり心配されたい、同情はされたくない。

ポジティブとネガティブの中間。「したい」と「したくない」、あまのじゃくの狭間。

夏の終わり、落ち込む出来事があった。

「人間はね、心が健康じゃないと何もできない生き物なのよ」

そんな量産フレーズは割と真理を突いていて、自分と向き合うことになるのが怖くて何もできなかった。

年季の入った「明けない夜はない」というフレーズと「神さまは乗り越えられない試練は与えない」こそ、そんなとき信じられたらいいのに。

夜中に目が覚める。

一瞬「わるい夢をみてたんだ!」と思うけれど、次の瞬間「ちがう。夢じゃない」と引き戻される。

繰り返すうちに束の間の安堵もなくなって、目覚めるたびに見慣れたクローゼットの角を見ながら「悪夢だったなら」と、真夜中のベッドに心が沈んでいく。

針の穴くらいの容量でいいから明るさが欲しい。
なのに毎晩、静かな闇が覆い被さってくる。

ポジティブを求めて、ネガティブになる。あまのじゃくの狭間は、せまくて苦しい。

そこから私を掬いあげたのは、狭間の私に付き添ってくれた友人。鉛みたいな気持ちを癒してくれたのは、ネットで見かけた文章、好きなドラマや漫画のセリフ、俳優、歌、詞、曲、声、絵。

子どもが綺麗な小石を拾い集めるように、一つ一つ眺めて縋っていたら、それが繭みたいに私を包んでくれていた。

大抵のことは自分で乗り切っていけると思ってた。

でも違った。

あまのじゃくの狭間にあったのは、すべて自分以外の誰かと、誰かが生み出したもの。自分だけの力でどうにかなんて、できなかった。


「人は一人では生きていけない」、使い古されたこれも本当なんだろう。

自分一人で生きているなんて思ったら、大間違いだ。

あまのじゃくの狭間であつめたものは宝物、ずっと私のパワー源になる。



(2022.3.1)


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