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「もう一回」

私が今まで生きてきて怒った顔を一度も見たことがない人がいる。

それが私の母方の祖父である。
祖父は穏やかで普段から動作はゆっくりしている。年のせいなのか忘れぽい所があり、「しまったしまった」と禿げた頭を自分の大きな左手でポンポン叩く癖があった。

そんな祖父は、自宅の一階に工房を持つ機械工だった。
お正月に、家族で母方の実家に行くと、昔に自作して特許を取った南極大陸探索船のエンジンのパンフレットを配る。「ハイハイ」となだめて、祖父の自慢話を聞きながら美味しいおせち料理やお寿司など食べるのが恒例となっていた。

祖父は職人気質なのに、頑固なところはなく、おだやかで優しい。
私が小さいころは長期の休みを利用して、市民プールや遊園地、旅行などたくさんの場所に連れて行ってもらった。

面倒見の良い祖父は、小さな私のわがままをいつも聞いてくれた。ジュースが飲みたければ買ってくれたし、アイスが欲しければ買いに行ってくれた。祖父は、私が機械に興味があれば跡継ぎにするつもりだったと母から後々聞かされたが、残念ながら私は全く機会は眼中なかったらしい。厳しくされたことが一度もない。そんな祖父との時間がいつも心地よかった。

小学生の頃、私が母方の実家の扉を開けると、ギャーッというブザー音がいつも鳴り響く。防犯用のブザーで、あまりにも大きな音に私はいつも驚いていた。高学年になっても、その扉を開けるのが怖かったくらいだ。

母の実家は、一階に祖父の小さな工房があり、生活場所は二階にある。祖父母に会うため、工房の大きな機械を横目に、靴を脱ぎ捨てて二階に続く階段を上る。
階段奥の簡易な扉のノブを深めに回して開けると、いつもソファー右端で眉間にしわを寄せながら新聞を読む祖父がいた。ブザーの爆音にも気づかず、「おじいちゃん」と呼ぶ私の声で、祖父は顔を上げ、「おう」と返事をする。

祖母が私たち家族の到着を知り、奥のキッチンから現れて、「いらっしゃい」と笑顔で出迎えてくれる。いつも割烹着のまま、第二声は「お腹すいたやろ?お菓子食べるか?」だ。
祖父母を訪ねる時は、決まってお正月など特別な日が多い。親戚が全員集まった後、お寿司やおせち料理など豪華な食事をする。それなのに、祖母は私の返事を待たず、柿の種やおかきの袋を破って木製のボールいっぱいに広げる。

「いらんて」と祖母に言いながら居間のコタツに潜るが、次は祖父が将棋盤と駒の入った木箱を持ってきて「勝負しよ」と迫ってくる。
祖父は、認知症になりたくないと常々言っていて、新聞を読んで頭を鍛え、散歩で運動を日課にし、将棋を一人でするようになった。
私は、小学校低学年に将棋を父から教わり、高学年になると地元の子供会でも結構強い方だった。子供会で精鋭チームを組んで、近畿大会にまで出たこともある。そんな将棋のできる孫の存在は、普段一人で詰将棋をする祖父からするとうれしくて仕方がないのだろう。

私は将棋が好きだったし、祖父も好きだったので、いつも祖父の相手をしていた。一回相手をすると祖父の今の実力がわかる。私の陣地がほとんど無傷のまま詰まれる祖父は、「しまったしまった」と頭をポンポン叩きながら、「もう一回」といつも言う。飛車角落ちで勝負しても、祖父は負けてしまう。

「あかんなー。勝てると思ったんやけどな。もう一回」

と右手の指を一本立てながらお願いする。
祖父は優しい。でも、負けず嫌いな強さがある。祖父の同じ戦法ばかりの将棋に後半は飽き飽きしたが、将棋を通して祖父と対話する時間はとても楽しかった。

しかし、私が大学院を修了した頃に、祖父は認知症の診断を受けた。
あれだけ認知症になりたくないと新聞を読み、将棋をするなど様々な認知症予防をしてきたのに、神は残酷だ。幸いにも、祖父の認知症は軽度で、体は元気なままだった。それほど病気は進まないだろうと私は思っていた。

その後、祖母は介護が必要な体になり、祖父母は夫婦揃って施設に入ることになった。叔母の家の近くの老人ホームで、まだ建って数年くらいのきれいなところだった。広めのリビングに大きな机があり、部屋の所々に椅子が置いてある。入居者は銘々自分の好きなことをして過ごしている。祖父は決まってエレベーター横の椅子に座り、いつも新聞を読みながら静かに暮らしていた。

しかし、翌年のお正月に親戚で施設に集まった時は、私の名前を忘れるくらい祖父の認知症が進んでいた。私は、まだ祖父は会話がまともにできるし、年齢的な物忘れだろうと楽観的に考えていた。
当時、いとこのかわいい娘姉妹が幼稚園に通うようになっていて、親戚で集まると、その娘姉妹が注目の的になる。祖父は私の名前は忘れていたけれど、ひ孫の娘姉妹の名前はずっと憶えていた。私は少し寂しさを感じながらも、そんな祖父がほほえましかった。

コロナが来て、面会に人数制限や時間制限ができ、家族で施設に行くことができなくなった。母は代表で週に三回くらい施設へ通っていたが、日に日に祖父の認知症がひどくなっていると言う。
流ちょうに話せていた祖父の思い出がたくさんあるため、私には実感が持てず、冗談半分で話を聞いていた。

コロナで半年ほど経って、母が介護士さんと協力して、テレビ電話で施設の祖父母とコミュニケーションをとろうとした。パソコン付属のマイクとスピーカーで、隣の部屋で作業をしていた私にも会話は聞こえていた。
母は「おじーちゃーん」と声をかけるが、「あーうーあー」と祖父は言葉にならない母音を繰り返す。しきりに介護士さんから、「ほら。娘さんですよ。ここ見て!」と言われながらも、祖父の視線は定まっていない様子だった。

この時、私は祖父のあまりにもの変わりように愕然としてしまった。作業を中断し、ショックで自室に戻って寝込んでしまったほどだ。布団の中で、小さい頃から遊びに連れて行ってもらった思い出が次々と映画のように彷彿とする。夏はプール・秋は遊園地・長期休みには旅行にも一緒に行った。そんな祖父に対し、病は無情にも進行し続ける。ぐるぐるめぐる思い出と認知症が進行する悲しさで布団の中で泣いて動くことができなかった。

一年後、祖父は亡くなった。

「穏やかで優しかった」

お葬式の参列者は皆、口をそろえて言う。
お葬式の挨拶で、いとこが祖父のエピソードを話してくれた。

いとこ夫婦と娘姉妹と四人で施設に寄った時のこと。
施設の広いリビングスペースで、姉妹は幼稚園で習ってきたダンスを祖父母の前で披露した。可愛く舞う二人の天使に、入居者全員がリビングに集まったという。そんな暖かい雰囲気の中、急に祖父はエレベーター横の椅子から立ち上がって、リビングの机の角を両手で握りだした。いつも静かに新聞の文字を追うだけの祖父の突然の奇行に、当時は、認知症のせいだと思われていた。

しかし、葬式で話すいとこはこう解釈した。

「おじいちゃんは、ダンスをする娘姉妹が頭をぶつけないように手で角を守っていた」と。

認知症でまともに会話もできない祖父が、そこまで考えていたのかはわからない。祖父の行動は自然に出てきた優しさだと思う。
祖父の強さと優しさに溢れたエピソードに、私は涙を抑えきれなかった。
もし叶うのなら、「もう一回」祖父に会いたい。


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