『れいこいるか』は、おもくてかるい

観た映画について書きます。『れいこいるか』を観る予定の人は、観てから読んでください。現時点で観るつもりがない人、この映画を初めて知った人は、読んでもらえると嬉しいです。

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最近、歯にやたらとものがつまるようになった。歯茎の衰えにより、歯が細くなっているのだろう。まだ32歳で何を言うか、と言われるかもしれないが、確実に老いが迫っている。10年前は居酒屋でおじさんたちが爪楊枝を咥える意味が分からなかったが、肉を食べた後に楊枝がマストな口になってきた。

歯が細くなることは不可逆だ。「30過ぎてからハラ出ちゃって」とか「かかとがカチカチになってさ」という話は可逆である。ライザップとか、"かかとスッキリかかとちゃん"でなんとかなるかも知れない。今は本気出してないけど、本気出せばなんとかなるんじゃないか的な。でも、細くなった歯が太くなることは、めったに無い気がする。何か良い方法があるのかもしれないが、そんな気がするから仕方ない。自分の歯が細くなってることを考えると悲しくなる。日々、積み重ねられる不可逆に泣きそうになる。

そんな中、新宿・K's cinemaでいまおかしんじ監督『れいこいるか』の上映に足を運ぶ。阪神・淡路大震災に関する映画、という前情報しか無い状態で観た。観ながら、この二十数年に起きたことを思い出していた。1995年のあの日、僕は小学1年生で、京都に住んでいた。目の前のヒーターがガタガタと揺れた。母親が、僕の上に覆いかぶさってきた。今までに経験したことのない揺れが起きた時、母が自分よりも息子である僕を優先することが、嬉しくもありながら、照れ臭かった。

「れいこいるか」は、震災で娘を守れなかった親たちの話だ。震災による死、という不可逆な事実を抱えながら、生き、笑い、泣き、酒を飲む人々の話。過ぎ去った日々は戻らない。「れいこいるか」という呼びかけの答えは「いない」に決まってる。それでも「いるか」と聞かずにいられない夫婦の話。

正直、もっと悲壮感が漂う重い映画だと思っていた。娘の死を受け入れて、再生する夫婦の姿に、きっと涙が止まらなくなって、重い気分で帰路につく映画だろうと思っていた。だから、冒頭、悲劇の直後に挿入される、あるシーンに戸惑った。というか、考えるよりも先に笑ってしまっていた。同時に、この9年間すっかり忘れていたけれど、あの震災の語り方を表現者たちが模索していた時期を思い出す。

NHK特番のナレ録りを軸に震災を描く森山未來主演の『未来は今』(2009)、大根仁キュレーションによる「秀吾岡宗の震災すべらない話」、サトエリに「スリーサイズか電話番号教えて」と聞くところから始まる『その街のこども』(2010)…。2011年3月11日以前、「不謹慎」という言葉がまだ反語として成立していた時代があった。「震災」という言葉が指すものが変わってしまった2020年に、こちらの張った肩肘を脱臼させるかのような、笑うに笑えない、けど笑ってしまう出来事が積み重ねられていく。震災とセックス、娘の死と膣痙攣。

映画の中ではたくさんの「取り返しがつかない」が描かれる。死んだ人間は戻ってこないし、仮設住宅は5年で解消される。みんな、いろんなことを忘れる。ジャージのゴムはゆるゆるになる。そこに、希望はない。だけど、ほんとは絶望もない。死ぬ前日までは「明日も生きてる」という事実がそこにある。

そんな映画の中で、不可逆だと思われる出来事が元に戻る瞬間が描かれる。現実にはそんなこと、痩せた歯が太るくらい有り得ないことかもしれない。現実に向き合いながらも、リアリティなんてものを飄々と飛び越える軽やかな映画だった。その軽さにこそ、「希望」「絆」「平和」という言葉たちにはない説得力があった。

「れいこいるか」というタイトルについて。「いるか」は呼びかけであり、海の動物だ。ダジャレである。深刻になるべきだと僕たちが思ってしまう題材に対して、なんと軽い言葉だろう。死んだ娘への「いるか」という問いかけは重い。でも、映画の中で発される回文のように「いるかはかるい」。映画と違って、現実は不可逆だ。だからこそ、たまには逆さまに読んでみたい。重い話を軽く語りたい。もう戻らないことから目を背けず、見つめてみたい。

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