Twitterに「『全裸監督』サイコー!」と書いて、やっぱり消した。(※ネタバレあり)

『全裸監督』を観た。仕事をほったらかして一気に観てしまった。1988年生まれの自分にとっては、画面の中で描かれる出来事はもはやファンタジーだったが、村西とおるは確かに実在したのだ。「AVで世界を変える」と信じられた時代があったのだ。自分の中で何かが燃え上がるような感覚になった。それと同時に、燃えかすのようなものが残った。Twitterに「『全裸監督』サイコー!」と書いて、やっぱり消した。この燃えかすは、ちゃんと言語化しておいた方が良いと思ったからだ。

Netflixが流しているCMを見て、燃えかすの形がより明確になった。

「人間まるだし。」

コンプライアンス(法令遵守)という言葉が浸透し、一般視聴者も業界の事情を先回りして勝手に息苦しさを感じてしまうような時代において、「コンプライアンスを無視してまるだしの人間を見せる」というコンセプトはマーケティング的には完璧だと思う。しかし、そこで描かれなかったものが「これは流石にダメ」という新たな線を引いてしまうことを忘れてはならない。

さて、Netflix版『全裸監督』には「顔面シャワー」の描写が無い。

顔面シャワーとは、現在「顔射」と呼ばれる、フィニッシュ時に相手の顔面へ精液をかける行為のことだ。顔面シャワーはAVの本番化を象徴するプレイとも言える。原作では、顔射誕生の瞬間がドラマチックに描かれる。

この日、AV史上、歴史的な出来事が起こる。(本橋信宏著『全裸監督』より)

この笑ってしまうくらい壮大な一文から、神崎真弓主演『女教師・生徒の前で…』の撮影現場が描写される。男優の代役を務めた助監督が早漏だったため、フェラチオの最中に射精してしまい、口からこぼれた精液が顎から首筋、乳房へ垂れていった…というのだ。これが爆発的なヒットとなった。村西は同書の中でこう語っている。

「あそこから突き抜けていくわけだよ。だったらフィニッシュに口と言わず顔にかけたらいいだろうって。顔面シャワーの誕生だよ。だったら本番しかない。私に本番撮らせるようになってから実力が出てきたんだろうね。それまで擬似の現場は、全員がしらけてるんだから。」(同上)

Netflix版では村西のもう一つの発明である「駅弁ファック」の誕生が印象的に描かれるが、「擬似から本番へ」というAVの発展を描くには顔面シャワーこそ描かれるべきではないか。川上奈々美演じるみくが前貼りを外し、本番撮影を行うシーンでは、興が乗った村西とみくが駅弁ファックで部屋を飛び出す様を見せることで、何かを隠蔽しているようにも見える。

駅弁になくて顔面シャワーにあるものは何か。

それは、AVにおける男性の加害性である。

顔面に性液をかける行為は、セックスを見せる映像のゴールとして実に合理的だ。快感の絶頂に達した女性の顔と、本番をやっていたというアリバイの射精が同一フレームで撮れる。駅弁ほど身体的な苦労はいらない。ただ、顔にかければ良い。駅弁ファックがチョコボール向井の得意技として消費され尽くし、あまり見かけなくなったのに対し、顔面シャワー=顔射はAVの定番として今も残っている。

Netflix版『全裸監督』は、そんな現代AVを象徴する顔射を扱わなかった。何故か。様々な原因が考えられる。そもそも、脚本家が複数いるチームで書かれた物語のため、「描かない」という判断に明確な理由を問うのは難しいかもしれない。集団心理なのか、Netflix側からの要請があったのかは分からないが、村西とおるの女性観、男性の支配欲、現代AV、そして何より本番行為を象徴するモチーフになり得たであろう顔面シャワーを無視した。単純に言えば、駅弁は笑えても顔射は笑えない、笑ってはいけない、という判断だろう。

ドラマ版の第1話では、村西が妻の浮気現場に出くわし「あんたでイッたことないのよ。1回もね!」と捨て台詞を吐かれる様が描かれる。原作で妻の不貞を目撃するのは村西の母親である。妻の浮気は、原作でも村西の人生を決定づけるターニングポイントとして描かれるが、それをより強調するシーンになっている。しかし、同じ話の中で村西が語る決意表明はこうだ。

「売りたいんだ。人間の性欲を」

 一方、原作での描写はこう。

 女というのは妻である前に女である、と初めて思い知らされた。
 のちに女子大生やOLを相次ぎAV出演させて、汗と性液まみれにしてしまう一つの原点がここにある。
 女への不信と怒り、それと同等のエネルギーでまた女を愛する本能。(本橋信宏著『全裸監督』より)

村西自身の発言ではなく、地の文からの引用である。原作の清濁併せ呑む態度に対して、Netflix版は「女への不信と怒り」という言葉で表された村西の歪な部分に目を背けてはいないだろうか。

何故、目を背けるのか。

僕は過去に、女性に対して無意識に見下した言動を取ったことがある。
お酒の力を借りて、ホテルに誘ったこともある。
誰とセックスしたかで、その人の人格を判断してしまったこともある。

他にも、女性に対して謝りたいことがいっぱいある。

「若かったから」「そういう時代だったから」「向こうも求めてたから」そうやって無茶な自己肯定を重ねていくと、どんどん苦しくなるのは身を持って知っている。息苦しいのはコンプライアンスのせいではなくて、自分の過ちを認められないからではないのか。自分が間違っていた時、ごめんなさい、と言える男でありたい。

Netflix版『全裸監督』は、謝るタイミングを見失った男の言い訳を、ずっと聞かされているような居心地の悪さがあった。駅弁は未亡人を喜ばせるため、本番行為は彼女が決めた、裏ビデオ流したのは俺じゃない…。80年代、本番行為を売り物にしたアダルトビデオというジャンルが生まれた。そこには「世界を変えてやる!」というエネルギーが詰まっていた一方で、多くの女性を傷つけた。その抗いようのない事実に、ちゃんと向き合っているだろうか。女性の顔に性液をかけて「顔面シャワー!」と叫んだ男を、多くの男が喜んで受け入れた時代に。

『全裸監督』が扱っているテーマは決して過去のものではない。AV女優への出演強要問題、それに端を発する司法の介入と業界内の自主規制、AV人権倫理機構が目指す「適正AV」と現場の齟齬など…。本音と建前の使い分けが通用しなくなりつつある今こそ、描かれる問題は深刻さを増している。

AVについて考えていると、上原亜衣の引退作がDMMから消えた日のことを思い出す。2016年、あるAVの出演者・制作者合わせて52名が、キャンプ場での撮影が公然わいせつに当たるとして書類送検された(その後、不起訴)。事件の影響を受け、「100人の男性に追われて捕まったら中出しされる」という上原の引退企画がお蔵入りになってしまったのだ。正式なアナウンスが無いため、不明な点も多いが、メーカーの公式ツイッターは、その後、こうつぶやいていた。

そういえば、最初に100人×中出しを撮ったきっかけってただ一つだったんですよね。
上原亜衣と何したい?
うーん。
あっ!一緒に走りたい!!
だって、学生時代にうちら好きな女の子と一緒に走れなかったから!青春を取り戻したい!
それが100人×中出しです。

繰り返すが、1人のAV女優を100人で追いかけて中出しするAVの制作サイドの言葉である。「嘘つけ」と鼻で笑われても仕方ない言い訳だが、そこに真実もあると思う。「上原亜衣と走りたい」と「上原亜衣に中出ししたい」のどちらも本当で、人として間違っているけど、正しい。少なくとも、どちらかを無かったことにして良いわけがない。

僕は決して政治的に正しい物語が見たいわけではない。むしろ、人として許されないような行為ばかりしているのに、どうしても嫌いになれない主人公が見たい。Netflix版『全裸監督』の村西には、もっと暴れてほしい。歪んだ欲望をまるだしにしてほしい。最低のミソジニストで、自分の作品のために本番強要して、最終的に顔射して、問題起きたらシカト決め込む頭のおかしいおっさんが見たい。どうせ、そんな奴にも自分を見出して、泣いちゃったりするんだから。


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映画監督です。プロレス映画、心霊映画、ピンク映画を撮りました。 『おっさんのケーフェイ』『怪談新耳袋Gメン・密林編』(DVD発売中) 『怪談新耳袋Gメン・孤島編』(8/23〜キネカ大森にて公開) 『やりたいふたり』(8/24〜テアトル新宿にて公開) よろしくお願いします。
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