映画『横須賀綺譚』を観てほしい

少し前に観た映画について、内容には触れずに書きます。

2020年7月23日、新宿のK's cinemaで映画『横須賀綺譚』を観た。その日、東京都の新型コロナウイルス感染者数が300人台に乗った。新宿駅東南口から劇場までの道は閑散としており、まるでパラレルワールドに紛れ込んだようだった。劇場に入ると数人の観客がロビーで開場を待っている。世の中がどうなろうと映画館に映画を観に来る人はいる、と少し安心する。映画は、そんな終末っぽい街で観るのにふさわしい物語だった。

とにかくスクリーンに映る人たちの顔が素晴らしかった。自分も仕事をしたことがあるしじみさんと川瀬陽太さんは、全然違う顔に見えた。この二人は、良い意味で映画の道具となり、状況に合わせた最適解を出せる方々だと思っていたが、この映画の中では最適解じゃなくて、ただそこに生きている感じがした。

映画が終わった後、劇場支配人が「監督がいらしてます」と告げ、予定されていなかった舞台挨拶が始まった。スクリーンの前に立った大塚信一監督は、この映画に仕掛けられたある企みについて語り出した。その姿を眺めながら、『ある日……』を思い出し、ぞっとする。

『ある日……』は藤子・F・不二雄による短編漫画で、アマチュア映画サークルの上映会が舞台となる。参加者同士の批判は決してしない馴れ合いの上映会。そんな中で、ずっと黙っていた佐久間という男が「つまらんです」「問題意識のかけらもない」と言い放ち、自作『ある日……』を上映する。日常のスケッチを映したフィルムが突然「プツン」と切れる。核戦争により小市民の生活が消滅したことを表現しているという。「唐突すぎる」「伏線もない」「説得力ない」と、さっきまで褒め合ってたくせに生意気な若者にはマウンティングしてくる映画おじさん達に、佐久間が反論する。

「ある日」は「唐突」にやってくる。「伏線」など張るひまもなく。「説得力」のある破壊なんてあるものか。

この漫画か描かれたのは1982年。核戦争への恐怖がリアリティを持っていた頃だが、「核戦争」を「テロ」や「震災」や「ミサイル」に置き換えれば、今でも十分に通用してしまう。この作品には、最後のコマに作者のサインが日付入りで書かれている。数日後に雑誌を開く、同時代の読者に呼びかけるように。

『横須賀綺譚』も、この時代に生きるすべての人に向けて叫んでいるような映画だった。なぜ、あんなことがあったのに、すべてを忘れて生きていられるんだと、観客ひとりひとりの首根っこをつかんでくる。この映画が提起する問題は、残念ながらこの先も残り続けるだろう。でも、大塚監督は明らかに同時代の観客に向けて叫んでいた。ぜひ、今、スクリーンで観てほしい。今日から先は、これから作れる。


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