「わたしはここにいる」〜書、そして人が生きるということの研究〜(斎藤文春先生個展にあたっての寄稿文)

はじめまして、というのは勇気のいる瞬間だ。そのひとがどういうひとなのか、何を考えて生きているのか、分からないからだ。時間をかけながら、表情や声や笑い方で次第に分かってくる。わたしたちはコミュニケーションの多くを、非言語に頼っている。そんな中でも、比較的短時間にそのひとそのものの情報が入ってくることがある。そんな体験をしたのが、文春さんとの出会いだった気がする。
 2020年のこと。塩竈市の杉村惇美術館で「花と夢・みんなの書の展覧会」を開催するということを聞き、私が主宰している書道塾taneのメンバーの作品も出してみようと思った。文春さんとは面識はなかったので出品することも緊張する。障害のある青年たちの作品を数点を送り、どんな人がどんな思いで書いたということは伝えたい、と思ったのでメッセージを添えた。何かが開く瞬間というのはちょっとしたことだったりする。温かい返信の言葉で「はじめまして」の緊張は一瞬で消えた。そして会場でお会いした時、その作品と作者の雰囲気があまりにも一致し、そこはかとない安心感を覚えた。そうだ、作品とは、その人自身なのだった。ふわり、とした雰囲気があるのに、その線は鋭さすら感じるという多面性。ねらったような余白ではなく、そこにその空間はなくてはならないもの、と感じるような必然性。文春さんの書には、「わたしはここにいる」という存在感があった。そして、それは自己主張などとは違う、なにかやわらかく、もっと空間に馴染んでいくような存在感である。不思議だ。ずっと見ていられる。それが、出会いであった。
 生涯発達支援塾TANEは、人は生涯にわたって発達し続けるということをテーマに、発達の多様な子どもや大人の場づくりをしている。「誰でも調子の乗れる書道塾」というのが、書道塾taneのコンセプトである。それは「わたしはこれでいいんだ」と自分自身を受け入れて生きることにほかならない。石巻を中心に、さまざまな場所でワークショップを行っている。メンバーの中には、障害がある方もいるし、年齢も小学生から70代までと幅広い。私たちは常に外部からの評価を気にしながら生きていて、なかなか自分にOKを出せなくなっている。どう思われるか、どう見られるか、そればかりが判断材料である。そのことが多くの「生きにくさ」を生み出している。私たちは外側に合わせながらたくさんの仮面やたくさんの鎧を身につける。そのうち、仮面なのか本心なのか分からなくなってくる。自分の字が嫌いだという大人が多いのは、「こういう字がいい字だ」という妙な思い込みがあるからかもしれない。その枠を外すには、子どもも大人もごちゃまぜにして多様な人たちと「書く」ことが効果的である。人は自分のことを固定して見てしまう。他者と混じることで、新たな視点に出会えるということは、ここ数年の場づくりの中で得た、最も重要な気づきだった。自信がなさそうだった人たちが、どんどん解放され、「わたしはここにいる」という感覚を持ち、書くことそのものの楽しさに没頭していく姿を見てきた。

 筆は、決して思い通りに動いてくれる書きやすい筆記用具とはいえない。だからこそ、その不自由さや不確実性の面白さがある。同時に、同じ筆でも紙や墨の濃さを変化させることで表情を変えていく。その紙と墨と用具の研究者が文春さんそのものである。人間関係、コミュニケーションなどというものも実はそうだ。その人そのものを変化させようとするのではなく、さまざまな環境や設定を変化させていく。思い通りにいかず、分かり合えず、だからこそ面白い。不自由で、不確かで、不安定で、境界線もあいまいな、そんな「間(あわい)」にこそ、美しさがあるのだと思う。現代社会の中での生きにくさは、そんな不確定さを許されず、何もかもコントロールしようという雰囲気があるからかもしれない。

 文春さんの書は、わたしにとって「先行研究」である。それは、「書」だけではなく、「生き方」という研究でもあり、私たちが追求していく世界の面白さを感じている。


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