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パンダのイイブン

私の夫に、子どもたちが
「パンダかいてー!」と頼んでいました。

夫は、
『ドラえもん』を描くと
『どっちかというとパーマン』みたいになるし

『走ってる人』を描くと
『甲殻類の何か』になる

奇才の持ち主。

その夫がパンダを描くと…

なんと!

ブチのくま

になりました。

驚愕です。
画像が残っておらず、残念です。

パンダと言えば、どこが白でどこが黒だっけ?しっぽはどっちだ?という話題は良く耳にしますが、「目の周りが黒」なのは、ほとんどの方が認識しているのでは、ないでしょうか?
(子どもの手遊び歌にも、目の周りに手を当てて、パンダ♪というのがあるほどです!子どもの頃から刷り込まれているほどなはずです!)

しかし夫にとっては

黒の部分が顔のどこかにある。

という認識だったようなのです。

その認識からいくと、顔がブチのくまが出来上がってもおかしくはないのです。

私は、これを見て、
人の認識とは、なんとあやふやな物か!
と改めて考えさせられ、随分思いを巡らせました。

例えば、私はnoteで自分の不登校の子どもについて書いていますが
不登校だってそうです。

「学校は行くのが当たり前だ。」
というのが、普通の認識だとします。
これが、
「パンダは目の周りが黒い。」に当たります。
なんたって幼少期から刷り込まれてますから。

ところが、学校に行かなくなってみて

通級クラスや、別室登校

主に家庭で過ごすホームスクーリング

「学校」や「スクール」と名は付くものの
サドベリーやデモクラティックスクール
シュタイナーやイエナプランなどメソッドを取り入れたフリースクール

などを選んでみれば

学校は行くのが当たり前だ。の前に
学校教育とはこういうものだ。という認識も変わってきます。

「パンダの顔には黒い部分がある」くらいの認識で生きていれば、学校へ行かない選択は、何もおかしくないし、何も不自由じゃない。
むしろ顔のいろんなところにブチを作れるので自由ですらある!
学校教育だって、もっと自由であってもいいと思えるのです。

認識とは、もっとあやふやなものでいい。

そこから、疑問や発想が産まれてくるから。

そもそも、誰がパンダを白と黒にしたのか、
それが本当に正しい形なのか、
ただのブチでも良かったのではないか、
目の周りが黒である理由があるとしても、
それは単に進化の過程かもしれない。
これからブチとしてホッペの部分に移動していくかもしれない。

今の学校行事は何の目的で行われてるのか、
軍国主義の名残りではないのか
何故なわとびなのか
何故リコーダーなのか。
それは、単に進化の過程かもしれない。
スラックラインや、アルプホルンになるかもしれない。

学校は行くのが当たり前、なのか。
学校や学び方は選ぶのが当たり前、かもしれない。

ただ、そういう認識は少数派だと思います。
事実、私もこの認識が持てずに随分苦労しました。
未だに困難に突き当たる事があります。 
やっぱりパンダは、目の周りが黒いんです。黒いブチが付いているだけとは思えない時があるんです。
そういう時は、
目の周りが黒いのがパンダ、も正解。
顔に黒いブチがあるのがパンダ、も正解。
と思うようにしてます。

しかし!
ひと昔に比べれば、随分、不登校への認識も変わって来ていることは確かです。
学校教育への改革も進んでいます。

公立の学校でも、宿題やテストをなくしたり、担任制を廃止したりという新しい形にチャレンジする学校も出てきています。

教育機会確保法もできて、不登校の子が不当に扱われる事がないように明記されているし、
文部科学省の不登校支援の指針も改訂されてきています。

何より
テクノロジーの進歩で、
家にいても学べるツールが断然増えています。
また、親の立場からすると
同じ仲間と繋がりやすい環境なので
情報収集や、問題解決のシェアも格段にしやすい状況になってきていると思います。

パンダだって、もう、チャイニーズネームじゃなくても良い時代がすぐそこまで来ているかもしれません!


あなたも、パンダがブチのくまに見える自由を得ませんか!?

ちなみに、夫は私の事を
広末涼子に似ている…
と言います。

あやふやな認識による自由って素晴らしい!



#教養のエチュード賞
に参加しています。

楽しんでいただけたら幸いです✨よろしくお願いします!