見出し画像

失われた一年間について話そうと思う。

 私は中学校一年生の夏から二年生の夏の終わりまで、不登校だった。

 私は当時、太り気味で、親の教育理念から眉毛やムダ毛を処理する事も許されず、デブ、ブスと陰口を言われていた。
 その上、声がよく通る。普通に話していても声が大きいと言われていた。
 デブでブスのくせに声がデカくて、自己主張が激しい、それがクラスメイトの私に対する印象だったらしい。

 私の通う中学校は所謂マンモス校で、私のクラスは問題児と呼ばれる子達の寄せ集めの様なクラスだったらしい。
 学級崩壊になりかけた状況に当時の担任は、「何故このクラスはうるさいのか」「原因となっている人の名前を匿名で紙に書き、投票しましょう」と言う、今思い返しても意味不明で無駄な授業を一時間設けた。
 投票が終わり、開票。その時、担任は挙がった名前を黒板に書き始めた。
 その名前は私の名前だった。
 私は心臓の音が酷く嫌な感じに高鳴って、口の中も血の味がして、頭が真っ白になったのを今でも覚えている。
 その投票を後に集計して、問題となっている生徒を呼び出すとか、そう言う事を想像していたから、まさか、こんな晒し上げの様な事をされるとは思ってもみなかったのだ。
 他にもチラホラと私以外の名前は書かれたけれど、私の名前が圧倒的、と言うか八割だったと記憶している。

 確かに私はある意味で嫌な人間だったかもしれない。
 嫌な事は嫌とハッキリ言うし、嫌いな人に愛想笑いをして何ともない話をする事が出来ない性格だった。
 皆が当時、興味を持っていた様なジャンルの雑誌やドラマなんて見た事がないから話も合わないし、むしろ真逆のビジュアル系とかロリータとかパンク系の服装や髪型が好きで憧れていたし。
 だから、言ってみれば悪目立ちしていたのだ。でも、今でも思う。それが好きだから、貴方達に何か迷惑を掛けたわけ? って。
 けれど、当時の私はそんな風に割り切れなかった。私をデブだのブスだの聞こえる様に罵り、性的な単語を使ったあだ名(これは小学五年生の頃から始まった)で呼ばれても耐えて続けて来た私を、担任と言う大人すら味方するどころか、一緒になって、「このクラスは(種を蒔く人)さんがいるから滅茶苦茶なんですね」なんて言うのだから。

 その日の夜、母と大好物のラーメンを食べに行った。
 しかし、一口も食べられなかった。大好きな物が。
 それを不審に思った母が、「何かあったの?」と聞いた。それから数分間、何も言えず………でも耐え切れなかった。その日あった事を店の中でもあるにも関わらず、涙を流しながら説明した。
 それを聞き終えた母は絶句し、そうかと思えば目つきを鋭くさせ、「今から学校に電話する。こんな事はあってはならない事だ」と言い、ラーメンを急いで食べ終え、帰宅し、学校に電話した。
 母は校長に通してくれ、と言ったけれど、もう不在だった様で、教頭に話をした。その事柄について納得の出来る理由がなければ、教育委員会に直訴すると言うと、教頭は一旦電話を切って校長にすぐ伝えるので待って欲しいと言って、電話を切った。
 そして程なくして、大変申し訳ない事、あってはならない事をしてしまった、と言う前提で、一度面談をしたいと言う事で、母が学校へ行く事になった。多分、それは私も行かなければならなかったのだろうけれど、私は既に疲弊しており、学校に足を運ぶ事が無理になっていた。

 考えてもみれば、私は相当我慢していたのだと思う。
 デブだとかブスだとか、面と向かっては言われなくても、聞こえる様に言われて。
 性的なあだ名に関しては面と向かって言われている上に、クラスメイト以外の男子生徒からもそのあだ名で呼ばれていた。やめて、と明確に拒否しても。
 そして、問題となった授業がトリガーとなって、私はとうとう壊れてしまった。

 母が学校で校長と話し、教育委員会だけは勘弁して欲しい。だけれど、学校側の言い分だけを通す事はしない。当該担任を担任から外し、他の学校へ異動させる、と言う提案を受けた。
 でも、私はちっとも嬉しくなかった。安心も出来なかった。
 だって皆、紙に名前を書くほど、私が疎ましくて、憎いんでしょう?
 そんな人間が八割もいる狭い教室にこれから、どんな顔をして通えば良いの?
 私はその日から学校へ行かなくなった。

 皆が笑って友達と話している毎日。
 当然の様に受ける授業。
 親が我が子の成長を見れるはずの行事。
 被害者ぶるなと言われてももう構わないのだけれど、私は全てを奪われた。

 そうは言ってもテストだけは受けなければならなかったから、テスト期間中はその時間だけ別室でテストを受けて、終わればすぐに帰宅していた。
 帰宅する車の中で、体育祭の練習をしている場面が見えて、何でこうなったんだろう、そんな事ばかりを考えていた。

 そんな私の救いは、家にいたチワワと、インターネットとビジュアル系、絵を描く事だった。
 インターネットでチャットや掲示板に書き込みをする内にタイピング能力が養われたし、ニュース記事も沢山読んでいたので、難しい言葉も同じ歳の子よりは覚えていたと思う。
 チワワがいた事によって、この子は一人では何も出来ないから、私がやらなくては、と言う気持ちでお世話が出来た。
 ビジュアル系については、今でも私の誹謗中傷をする材料として、「そんな物が好きとかドヤ顔で言ってるBBAキモい」とか言われるけれど、ビジュアル系の拙いけど仄暗い歌にどれだけ救われたか分からない。遠征に行く為に必要な宿泊先や移動方法を素早く確保するスキルも身についた。ビジュアル系が好きだったから、追いかけたいから、仕事も頑張れた。
 漫画家にはなれなかったけれど、漫画家を目指して絵を描き続け、美術学科のある短大に行けたのは私の財産だ。

 でも、たまに立ち止まって考えてしまう。あの一年が平穏な一年であったなら、私にはもっと友達がいたのかな?
 勉強もそこそこ出来て、進学校に行って、母を喜ばせる事が出来たんじゃないか?
 好きな人が出来て両思いになったら、素敵な恋が出来たんじゃないのかな? って。
 何より、私と同い年の子が笑いながら登校しているのを目の当たりにして、何で自分の子が笑って学校に行けないどころか、自傷行為をして、死にたいと思いながら生きなければいけないのか、と母に思わせ、悩ませてしまった事は今でも申し訳なく思っている。

 それから二十余年、私は結婚をした。
 自傷行為での消えない傷痕が見えても、現在進行形でうつ病でも、それとちゃんと向き合ってくれる人と。

 私が何故、この話をしたのかと言うと、ジャングルポケットの斉藤さんが、自身が受けたいじめについてを語った記事を読んだからだ。

 そこに書いてあった、教師による発言が自分のそれと似ている、と感じて、居ても立っても居られなくなった。
 私も未だに担任の名前はフルネームで言えるし、いじめて来た中心人物達の苗字は全員覚えている。顔も忘れたくても忘れられない。実家に帰った際に偶然コンビニなんかですれ違った日なんかには未だに体調を崩して眠れなくなったりする。
 そんな人達が今や、人の親になっている。
 それどころか、同学年の子が三年生で自ら命を絶ってしまった時、弔辞まで読んでいたのだから。あの時、彼はどんな気持ちだったのだろう。私には全くもって理解出来ない。
 私はもうその人達と関わり合いになる距離には住んでいないけれど、もし顔を合わせたら聞きたい。
 あの時、貴方にこんな事をされたけど、それを自分の子供に、夫や妻に正直に言える? って。
 どうせ、苦笑しながら話をはぐらかすのだろうな。いじめた人間は自分の行為を正当化するし、すぐに忘れてしまうのだから。

 いじめがこの世から無くならないとして、いじめられている人がいたとしたら、「親や誰かに迷惑をかけたくない」とか、そう言う理由で、誰にも頼れない状況を作って欲しくはない。
 失いそうになっている、自分の人生の大切なワンピースを誰かと一緒に守って欲しい。
 そして、いじめをしている、加担している、見て見ぬふりをしている人達へ。
 貴方に親がいる様に、そのいじめている人にも親がいる。貴方の親が貴方の幸せを願う様に、その人の親もその人の幸せを願っている。
 想像力を持って、行動・発言して欲しい。

この記事が参加している募集

#振り返りnote

85,308件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?