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地域でよく見る「若者バブル」という悲劇

はじめまして、種市慎太郎と言います。北海道札幌で、高校生の為の学生団体UKARI という団体を2年ほど運営していました。(現在は引き継ぎを済ませ、次の代表が運営しています。)

この団体は、高校生のやりたいことを応援する為に「挑戦者のベースキャンプ」という理念のもと、70名を超える高校生がいるオンライングループの運営や、5日間に渡る音楽〜ピッチコンテストまであるイベントSteppin’Up の運営、高校生が運営する高校生の為のコミュニティスペースU-LABOの運営(現在クラウドファンディング中です)などをしています。

「高校生なのにすごい」「まだ若いのに凄い」という言葉は毒になる。という話を書きたいと思います

僕が2年間、学生団体を運営してきて、関わる色々な大人の方に言われたのがこの、「高校生なのに凄い」という言葉でした。「高校生なの!?」「信じられないねー、立派だ」「高校生時点でこんなことできるなんて凄いな」こんな言葉をありがたいことに沢山いただけました。

ありがたい、大人の方はとても優しい、そう思えるようになり、こうして関わってくれる方のお陰で、背中を押されたことも何度もあるのですが、しかし、ずっと違和感みたいなものは感じていました。

その違和感を、僕は少し前まで、「高校生なのに」という言葉の「なのに」という部分かと思っていました。

「高校生なのに」言い換えると「高校生にしては」というニュアンスを含んだこの言葉が、気にかかっていました。というより自戒の意味を込めて受け取っていました。

自分は高校生の中では確かに頑張っているのかもしれない。けれど、大人の方のクオリティに比べれば、全く及ばない、ここで満足してはいけない。そう思ってきました。

この言葉を言ってもらえるたびに、よし!もっと頑張ろう!とか、まだまだ大人の方には敵わないなとか、そう思っていただけなのでしたが、自分の団体が代替わりして、新しい代表や、次の代の後輩たちを見る中で、「この言葉はとても危険だ」と思うようになりました。「嫌だ」ではなく、「危険」だと思うようになったのです。

以下、この言葉が何故危険なのか、誰に対して何をもたらし、何を奪うのかについて、書きたいと思います。(これはあくまでも僕個人の考察です。)

「高校生なのに凄い」という言葉が高校生にもたらす効果

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まず、「高校生なのに凄い」という言葉が高校生にもたらす効果について書きます。

まずこの言葉は、高校生で活動をするもの、同年代とは違う活動をしているもの、若くして何かを為そうとする人間にとって、最高で最恐な褒め言葉です。

「高校生なのにすごい」この言葉は、言い換えると、「普通の高校生ではない」という意味を持ちます。その「普通とは違う」というニュアンスが当人の虚栄心を刺激します。自分の周りの友達や、同じクラスの人間、そう言った同年代の人間と比べて自分は優れている、自分はできる人間なのだと、言われた人間に思わせることができます。相手は自分よりも何倍も先輩で社会に出ている人ですから、疑いもなくその言葉が心の芯まだ入ってきます。その結果として重大な錯覚を言われた人間にもたらしてしまうのです。

錯覚とは、評価と、実力(結果)がズレるということを意味します。この言葉は、確かに、「普通の高校生ではない」ということを意味し、確かにすごいのかもしれません。しかし、それは評価を指すことが多く、実力(結果)にまで及ぶ包括的な言葉ではない時が多いのです。

評価は、相対的に決まります。同じ高校生同士を比較すれば、高校生の中で目立ち活動的な人間は、確かに、評価が高いのかもしれません。(大学の入試は評価ですし、その他の表彰も評価です。)

しかし、実力(結果)はいつだって絶対的です。例えば、お店にとっての結果のひとつは利益が出ることです。どんなに評判がよくても、ちゃんと利益が出ていなければお店を続けていくことはできません。隣の店より評価が高いとかではなく、絶対的な利益という結果が左右する領域が確かに存在するのです。

確かに、同じ高校生同士では、凄いかもしれません。けれど、高校を出た後、もしくは、実際に社会に何かをする時に必要なのは、相対的な評価ではなく、絶対的な実力(結果)が必要になってくるのです。
この「高校生なのにすごい」という言葉は、一種のバブルのようなものを引き起こします。実力と評価のズレがこの先に大きな落とし穴になるのです。 

言われた高校生は、まだ人生経験がありません。従って、その言われた言葉を信じ込みます。その結果、どんどん活動的に、そして、どんどん虚栄心に支配されていきます。同学年には自分はすごいと思い接するようになります。それによって同学年との間に溝が生まれます。驕りが生まれるのです。だんだんと学校や同年代と関わるよりも、認めてくれる、知的刺激をくれる大人と関わりたくなります。そうして、大人の社交界に高校生が入っていきます。

評価を受けすぎる若者のジレンマと、若者バブルの崩壊

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それによって評価は上がるでしょう。社交をする中で、人伝で聞いた、何かわからないがすごい高校生がいる!と言った評価は、狭い地域であれば尚更どんどん上がっていきます。そして、評価のある人にはありがたい時代なのがこのSNSが浸透した評価経済の時代です。

評価のある人にはいろんな人が色々なチャンスをくれます。

「〇〇さんに合わせてあげるよ」「〇〇ってイベントにこない?」「〇〇を手伝って欲しい」

言われた側は嬉しいでしょう。(僕も最初はとても嬉しかったです。)そして言った側も真剣に頑張る若者を見て、「良いことをした」と感じ、また次のチャンスが回ってくる。と言ったようにチャンスが次々循環していきます。

最初のうちは、実力と評価のズレは大したことは無いと思います。高校生もそのズレには気付きません。ただ嬉しくて、評価が嬉しくて、どんどんのめり込んで行きます。

しかし、実力は成長速度が緩やかなのに対して、評価というのは加速度的に上がっていきます。 

人の口から人の口へ、口伝えに評価は上がっていきます。「すごい高校生がいるらしい」といった情報が伝播されていきます。チャンスはどんどんくるようになります。最初のうちは、適切なレベルのチャンスだったものが、評価の上昇に伴ってどんどんどんどん、自分から離れたレベルや、自分から離れたジャンルのチャンスになっていきます。

これが、期待の小さい案件や仕事なら、しんどいと思ったら断れるかもしれません。しかし、評価を信頼して、善意からくるこれらのチャンスは、沢山の方から温かい言葉を頂いている高校生の立場からは、しんどいと思っても断りづらいものが大半です。(中にはしんどいという事すら感じず無邪気に喜び頑張る人もいるでしょう)

こうして、バブルは完成します。気づいた時には、自分の実力とはかけ離れた世間の自分像が出来上がり、それらに目掛けて様々な期待と評価が押し寄せてくるようになります。 

高校生自身が、自分の実力は大した事ではないと思うことができれば、害はほとんど有りません。ゆっくりと時間をかけて活動を縮小していけば、上がりすぎた評価を戻せるからです。評価は一種のブームのようなもので、暫くすると緩やかに戻っていきます。

しかし、高校生自身がこの、「すごい」という言葉に乗せられて、驕りを持ってしまうと、歯車は逆回転を始めます。 

自分はすごいと思ってるので、活動を縮小するなんてことは頭に上りません。そして、社交を重ね、チャンスに向き合う中で、どんどん自分という存在が磨耗していきます。 

最初は心地よかった「すごい」という言葉は、「すごく在らねばならない」という強迫観念に変わります。そして、頂いていたありがたいチャンスは「プレッシャー」に、変わっていきます。

どんなに頑張っても、評価に実力は追いつきません。実力が上がっても、評価はその倍以上の速度で上がっていき、どんどん実力と評価は掛け離れ、実態のない評価が出回ります。これが「若者バブル」です。

そして、周りの期待は上がり、本人の負担は増えます。メンタル的にも、身体的にもしんどくなります。

「引くということはできない、それでは期待を裏切ってしまう。」 

「しかし、期待に応える実力は自分は持ち合わせていない。」

このジレンマに苦しみ、鬱症状や、ストレスを抱える高校生をTwitter上でも何人か見てきました。僕自身もそのプレッシャーにボロボロにやられてしまったことがあります。

こう書いていくと、勝手に高校生がのぼせ上がっただけだろう!と言われるかもしれません。しかし、考えても見てください。のぼせ上がる人間は、大抵は素直なのです。無邪気なのです。そして、期待を寄せて褒めてくれてチャンスをくれる良識ある大人の方も無邪気なのです。

この問題の本質は、大人の無邪気な期待に、若者が無邪気に応えようとすることから始まるバブルです。

バブル経済を見ればわかるように、悪い人など存在しません。ただ無邪気に期待をし、そしてその期待に実力が伴わなくても応えようとした企業と投資家の双方の無邪気さが悲劇をもたらします。

いつか、バブルは弾けます。期待に応えられず、潰れるか、期待していた方が見限るかです。

若者バブルは、圧倒的に前者の壊れ方、若者がプレッシャーに負けてしまうことのほうが多いです。

大人は若者とちゃんと向き合って、ちゃんと話を聞いてほしい 

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最初は地域の光だ、凄い!と呼ばれていた人が数年したら音沙汰がなくなる、活動が無くなってしまう。

この原因は、若者バブルの崩壊だと僕は思ってます。

せっかく、地域に生まれた素敵な光が、双方の無邪気なズレから消えてしまう場面を何度も札幌でも見てきました。

僕自身も、何度も辞めようと、つらいと思ったこともあります。

しかし、僕には素敵な同年代の仲間と、良い後輩たちがいてくれました。ダメになった時に支えてくれる方々がいました。

僕のやっているUKARI という団体は、そう言った皆様のおかげで、潰したり止めることをせず、残すことができました。

今後も、高校生はどんどん活動をすると思います。活動が生まれてくれるのはいいことですし、地域にとってもとても良いことだと信じています。

しかし、そのせっかく生まれた活動が双方の誤解から無くなってしまうのはもったいないことです。

これを見ている、大人の方には是非「高校生なのにすごい!」という言葉の使い方と、向き合い方を考えてみて欲しいと思っています

何気ない褒め言葉や、何気ないチャンスが、もしかしたらその人の負担になっているかもしれません。

誰か一人で良いので、話を聞いてあげてください。目の前にいるのはスーパー高校生ではなくて、ただの無邪気なやる気のある若者であることを忘れずに、接してあげてください。 

そうした、小さな寛容や優しさが、きっとより良い社会を作っていくと信じています。


現在僕が作った学生団体UKARIでは、クラウドファンディングを行なっています。「好奇心が交差する社会実験場」をコンセプトに、高校生同士が助け合って運営する場を札幌に作るプロジェクトをしています。

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https://camp-fire.jp/projects/view/240557


僕が何度も挫けそうになったときに助けてくれた仲間たち、そういった存在のいる温かな空間を後輩たちに、未来の札幌の高校生たちに届けるためのプロジェクトになっています。

もしお時間ある方いましたら覗いてみてください。高校生は挑戦します。そして、その挑戦はとても無謀かもしれませんし、かっこいいかもしれません。無理に持ち上げたりせず、等身大の高校生を見てあげたらなと思います。

生意気を言いました。お許しください。拙い文章で伝わるかどうか不安なのですが、大人若者問わず、寛容な多様な社会を作っていきたいと思っております。

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