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貴女もお客様

貴女もお客様

デパートのレストラン。
その言葉が、特有の輝きを放っていた時代があった。
家族みんなでお粧し(おめかし)して、出かける先。
白い手袋をしたエレベーターガールに導かれ、上へ。
開く扉の先、タキシード姿の支配人のお出迎えで始まるお食事の時間...

ここは確かに、そんな場所だった。
担当者として初めてこのレストランを訪れた時から、揺るぎなく、そう感じていた。

長い時を湛えた深い色のテーブル。
真っ白なナフキンと、にぶく光る銀のカトラリー。
それらを照らし出す、暖かな明かり。
そして何よりここで働く、ここに集う人々の醸し出す雰囲気が、物語っていたのだ。


アポイントメントで指定される時間はいつも同じ、夕暮れ時。
昼と夜の間(あわい)、あえてその時間を愉しみに訪れている馴染みのお客様がいらっしゃる、その片隅に通される。

お店のお客様ではない、存在。
それはきっと、このお店のお客様の目には明らかだ。
支配人の視界の隅にはきちんと私が映って、席に通されてからの時間も計られているのが、背中で判る。

どんな佇まいで居れば良いのだろう?
とまどいの中、恐縮としか言い様のない気配が足下から立ち込め、背筋を緩やかに凍らせてゆく。
時折それは、緊張のあまりの小さなため息、となって押し出されそうになり、慌ててそっと押し戻す。

何度目かのため息を飲み込んだその時、支配人が現れる。
「お待たせいたしました」
その声に続き、カチャリと小さな音をたて、私の前にティーカップがセットされる。
小さな驚きの中、なされるがまま一杯目をサーブしていただく。

温かい飲み物の立ち昇る蒸気に漂う香りに、ほっと心寛ぐ。そんな時は他にもあった。
けれど、笑みまで浮かんでしまうのは、初めての事だった。

微笑の目礼と共に「いただきます」と告げ、カップに口をつける。
暖かな液体は強張った背筋を解きほぐし、緊張の残り香を洗い流しながら、隅々まで行き渡ってゆく。

ほどかれた心は簡潔に、素直なこと葉を紡ぎ出す。
「どうしたら、こんなに美味しく紅茶を淹れられるんですか?」

還ってきたのは微笑、そして、こと葉。
「予めポットとカップを温めて、きちんと蒸らしの時間を取って...」

お店のお客様へのおもてなしの合間を縫って、重ねられた丁寧な時間。
その想いに触れた時、再び紅茶が私の中で打ち薫る。

商用での訪問。
けれども、その紅茶は告げていた。
「貴女もお客様です」と。


付記


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