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「ラッセンが好き〜!」と言える力

駅に向かう途中、夫が空を仰ぎつつしみじみと言った。

「おれ、ふつうに晴れの日が好きだわ」。

突然すぎてしばしポカンとしてしまったけれど、なんとなく言いたいことはわかった。「雨は雨でよき」「曇りの日もあはれなり」——そんなふうに情緒を解するのが大人のたしなみのように言われるけれど、いや、おれはピーカンの気持ちのいい日が好きなんだ、情緒も深みもなくて結構!と。

ふつうに晴れが好き、かあ。「永野じゃん」と、わたしは笑った。

永野とは、「孤高のカルト芸人」の二つ名を持つお笑い芸人だ。リズムにノリながら髪をかき上げて「ゴッホ(ピカソ)より ふつうに ラッセンが好き〜!」とシャウトするネタで一世を風靡(?)した。
余談だが「Perfumeのっちの髪型にしてください!」と美容院でオーダーすると高確率で永野になる、というのがネットの定番ネタでもある。

正直、彼の存在はいまのいままで忘れていた。けれどよくよく考えたら永野、大事なことを言ってるのかもしれないぞと思った。「ピカソよりふつうにラッセンが好き〜!」と声を大にして言えるって、すばらしいことでは……?

クリスチャン・ラッセンの描く絵をひとことで言えば、「ちょうわかりやすい」だろう。抽象的でもなければ体制への批判、世界を変えるといった野望も含まれない。ただただ、イルカがキラキラ優雅に泳いだり飛んだり。背景理解や解釈なんて必要なし、こむずかしい現代アートの文脈なんて気にしません、という力強さを感じる。

そしてそれは「美人がすり寄ってウブな若い男性に買わせる」商法やバブル期の成金趣味感もあいまって、「浅い」「ダサい」という評価につながったんじゃないかと思う。

ラッセンの絵、美しいし癒やされるんだけど、「好き」と公言するのは憚られるんだよね、バカにされる気がして——。

きっと、そんな思いを多くのひとが持っていた。だからこそ、永野のネタは大ウケしたのだろう。

* * *

人はSNSでもリアルでも、その発言を「評価」される。王道ど真ん中を好きと言ったりふつうのことを言えば「浅い」と評価され、マニアックなものを好きと言っても、知識が中途半端だとこれまた「浅い」と揶揄される。

反対に「ふつうじゃない」選択をした人や嗜好を持つ人、もしくは何かひとつを徹底して究めた人が「深い」と高く評価される。

たとえば好きな小説家、好きな音楽、好きな映画、好きなブランドを聞かれたとき。メジャーなモノを答えると恥ずかしいような、言い訳したいような気持ちになるひとは多いんじゃなかろうか。「浅い」「つまらない」「ダサい」認定される恐怖感に襲われて。

でも、だからこそ、ど真ん中王道を「好き」と言える力があるのはすんごく魅力的だと思う。「小津安二郎について語らせたら8時間はイケる」というひともすごいし尊敬するけど、

「いちばん好きな映画? 『アルマゲドン』です!」

と堂々と言っているひとだってかっこいいじゃないか。「ふつうに好き」でいいよねえ。永野……(尊敬)。

ちなみに永野はラッセン本人の前でこのネタを披露したことがあるのだけれど、通訳の人が「ふつうにラッセンが好き」の「ふつうに」を訳さなかった(訳せなかった?)ことで、ただラッセンに泣きながら感謝されて終わった……という非常によきエピソードもある。

「ゴッホよりラッセンが好き」と「ゴッホより『ふつうに』ラッセンが好き」のニュアンス、えらい違うもんね。

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