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なぜなら、わたしがうれしいから。

車がすきだ。なぜか昔から、ずっと車という存在がすきだった。

だから特別な好意を持っているわけでもない大学の男の子からドライブに誘われたとき、「古いプレリュードに乗れる」、それだけでOKしたことがある(そして首都高で3回転半の事故を起こされ、死にかけた)。

だから母からは、「就職で鹿児島に帰ってきたら好きな車を買ってあげる」と餌にされ、ちょっとだけこころが揺れたこともある(そのときわたしが候補にしたのは、いま乗っているのと同じ車種だ)。

だからいま、世田谷区の中でもかなり渋谷寄りの街に住んでいるにもかかわらず、信じられないような維持費を払って車を所持している。しかもファミリーカーじゃない、ハッチバックの3ドア。チャイルドシートに娘を乗せるのもひと苦労、ベビーカーすらトランクに入らないちいさなちいさな、その割にハイオクの、燃費の悪い車だ。

「ぜいたく」、そう言われることもある。実際のところ、保険や車検、駐車場代といった維持費を見て「手放そうか」と思うときがないわけでは、ない。けれどずっと欲しかったデザインで、しかももう廃番の色だからふんぎりがつかずにいる。同じ色の車は2〜3回しか見たことがない。

この車じゃなかったらいらない。だって、駐車場で見るたびに、乗り込むたびに、うれしくなるのだから。心強くなる。テンションが上がる。それで「維持費分、稼ぐか」という考えに落ち着くのが毎度の流れだ。

ちなみに夫は運転ができないので、純粋にわたしだけの車となっている。初年度はいちおう夫も保険に入れていたが、「対向車線の車が信じられないから」と断固運転を拒否され、すぐに外した。たまには助手席に乗りたいナ、なんて思うけれど、「わたしだけの車」ということは誇らしい。乗るたびにシートやミラーの位置を調整しなくていいのだ。かわいいかわいい、わたしの車だ。

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と、自分では納得いっているのだけれど、とくに女友だちには「理解できない」といった顔をされる。「どうして車がすきなの」と。

どうしてだろうな。車がすきといっても、生活の中心になるほどでもないし、とりたててくわしいわけでもない。新卒のときに日産にエントリーしたもののリーマンショックで文系採用が飛び、あっさりあきらめたくらいだ。もちろん暴走族(珍走団)に入るような、「走り好き」でもない。そういう中途半端なスタンスを知っているからこそ、「なんで?」と聞かれるのだろう。

理由を考えてみる。まず、見た目がすきだ。かっこいい、かわいい車がすき。理屈じゃない。ちなみに娘もJeepラングラーやベンツGクラス、フェアレディZ、FIAT500などの車に興奮するので、これは本能的なものではないかとおもっている。

また、自分の足でアクセルを踏んで、自分の手でハンドルを回せばどこにでも行けるから、すきだ。正確には、時間とガソリンさえあれば自分の意志でどこにでも行けるって感覚をくれるからすき。それは高校時代、お金を貯めては新幹線や在来線に乗って熊本、福岡に足を伸ばしていたときに噛みしめていた、自由の感覚なのかもしれない。

そしてなんといっても、「車の中」がすきだ。気分や行き先、車窓にあわせて音楽をかけられる。ラジオもたのしい。大音量でうたってもいいし、パーソナリティにツッコんだりあいづちを打ったりしてもいい。

考えごとやテーマを持ち込むことも多い。信号や標識、後続車などたくさんの情報を処理しているはずなのに、なぜか運転中は考えごとがはかどる。悩みごとをひとりでこねくり回すのにも、ぴったりだ。SNSやLINEを絶てるからかもしれない。

それに車の中は、関係性にたゆたう空気を凝縮する機能がある。苦手なひとや緊張するひとと乗ると、とことん息が詰まる。萎縮してうまくカーブをきれないくらいに。

だから、そんなひととは乗らない。すきなひとや仲のいいひととだけ乗る。そういう「いい関係」のひととでも、性別問わずいつもとちょっとちがう距離感がうまれて、はじめはぎこちなかったりして、でも会話が空間に溶けていって、わたしたちの場所になっていくって感じがする。

そんな場所に座ったまま、一緒にどこにでも行ける感じがして、うれしいのだ。犬だって、車に乗るとちょっとちがうんだから。より「相棒」って感じがする。

——むりやりことばにするなら、こんな理由だろうか。かんぺきには翻訳できていない気もするけれど。

車はわたしにとって「道具」ではなく「場所」なのだろう。わたしにとって、「うれしい場所」。通勤や子どもの送迎など、日々の用事に使うわけではない。車に乗ることが日常ではない生活だからこそ、ずっと薄い高揚を与えてくれる場所だ。

お金はかかる。エコでもない。でも、こんなに「うれしい場所」があるならそれでいいじゃないか、とも思う。わたしにはうれしい場所があるんだってわかってることが、きっといまのわたしには必要なんだろうから。

うれしいひと、うれしいもの、うれしい場所、うれしい時間。ひとそれぞれ、なにかあるだろう。

それを他人に「ぜいたく」と言われようが、そうだ、そういう存在があるってぜいたくなことなのだと開き直ればいいのだ。だから大切にしてるんだよと。

もちろんお金がかからない、気軽で手軽な「うれしい対象」があることがいちばん好ましいのかもしれないけどさ。でも、いいんだ。きっとわたしは車はじめ、いろんな「うれしい」のために、今日もはたらいているのだから。

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