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あなたのピースを少しでも。

「そういえば」と母は言った。「お母さんも高校生のころ、『オールナイトニッポン』聴いてたよさ」。

在宅勤務にもすっかり慣れた2021年春。おやつの時間、自分用に買っておいたアップルパイを口に運びながら鹿児島の実家にいる母と電話していた。今年も桃の節句を終えました、ひな人形ありがとうね。そのまま世間話に転がり、ちょうど仕事でとある雑誌のラジオ特集に携わったことをなんとなく伝えた。その中で深夜ラジオ『オールナイトニッポン』の取材もしたんだよ、と。

「へえ!」。そう声を挙げた母は、「そういえば」と古い宝箱をこじ開けるように語りはじめたのだ。そこに宝箱があったことすら忘れていたような口ぶりで。

「……なんとか放送を聴きたくてがんばって起きてたな。そうそう、電波が悪くて雑音がすごかったから、一生懸命耳を近づけて」

お母さんが『オールナイトニッポン』を聴いていたなんてちっとも知らなかった。「そういえば」って言うくらいだもん、話にのぼったこともなかったな。

アップルパイを口に運びつつ、卒業アルバムで見たおかっぱ頭の女子高生を思い浮かべる。いまも少女のような母が、ほんとの少女だったころ。

= = =

母の高校時代。それは、祖父が亡くなった時代でもある。

母が高校2年生のときに、祖父は事故で亡くなった。職場である小学校に通勤する途中のバイク事故。飛び出してきた子どもをよけての不幸だった。それからはじまった、鹿児島に親戚がひとりもいない専業主婦の祖母と子ども4人の生活は、相当に大変なものだったと聞いている。

そうでなくともいきなりすぎる別れだ。とくに末っ子長女の母は大のお父さんっ子で、その死は「人生がひっくり返った」し、「はじめて胃痛と頭痛を感じた」そう。しばらく呆然と過ごした後、「お父ちゃんを知ってる人と結婚するって決めたんだよ」。

母はなかなかのラジオ好きで、おじいちゃんが亡くなったころ聴くようになったという話は聞いたことはある。けれど、そうか、それが『オールナイトニッポン』だったのか。どうしてラジオに出会ったんだろう。ほかにはどんな番組を聴いてきたんだろう。ハガキを送ったりもしたのかな。

……なんてことをぼんやり考えていたら、急にどうしようもない寂しさに襲われた。こうしてわたしが知らないことを抱えたまま、母はいつか消えてしまう。

もちろん、知っていることもたくさんある。

ガキ大将だったこと。学校をサボっては桜島に逃避していたこと。「ドリフターズ」が大好きだったこと。短大の卒業発表は『革命のエチュード』だったこと。ピアノ講師で稼ぎ、お金を貯めては海外を放浪していたこと。世界中にペンパルがいたこと。

父とのお見合いは、写真を一目見て断る気だったこと。ごはん目当てで一応行ってみたこと。するとなんと、相手が「お父ちゃんの教え子」だったこと。そのまま父の実家に行き、その場で結婚を決めたこと。

……けれどこんなのほんの一部だ。母が編集して娘に物語った人生。『オールナイトニッポン』のリスナーだったことはそこから漏れた、文字どおりのこぼれ話で、わたしがラジオ特集に携わっていなかったらきっと一生共有されることはなかっただろう。

母をかたちづくってきた、あらゆるものをわたしは知らない。「伝えたい物語」に入れなかった、でもまぎれもない母の人生の断片はいつか彼女と一緒に燃やされてしまう。わたしたちはその腹の中にいたこともある人の記憶ですら、ごく一部をちぎり渡してもらうことしかできない。

奇跡的に手のひらに乗った断片の尊さにはじめて思い至る。絶対に完成しないジグソーパズルのいちピース。それは他人からしたら価値のない、ある関係においてのみ色鮮やかに光るピースだ。

いまのうちに少しでもパズルを埋めなくちゃ。そんな焦燥感を抱くと同時に、「でも」という思いもかぶさってくる。どんなにたくさんの「そういえば」を引き出したところで、それらはどうせわたしと一緒に消えてしまうのだ。わたしの娘が「おばあちゃんは『オールナイトニッポン』を聴いていた」なんて知ることはきっとない。わたしが聴くことに、その記憶の延命に意味があるんだろうか。

わからない。それでも、とイヤホンから流れてくるチャーミングな声を聴きながら思う。

とりあえずでいい。一度消えたピースは二度と取り戻すことができないから、意味なんてなくても、取るに足らないことでも、とりあえずもらっておこう。彼女の記憶がこの世からすっかり消えてしまう前に。

——気がつけば、窓から西日が差し込みはじめていた。アップルパイはとうになくなり、お皿にこぼれたりんごは乾きつつある。時計を見る。すっかり2時間が経っていた。話したりない、聴きたい、けれど。

「まだ話してるのか!」

向こう側から、「父ちゃんの教え子」の呆れた声が聞こえた。女ふたり、舌を出すようにして笑うと「じゃあ、またね」と電話を切った。

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