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「1000枚のフィードバック」がくれるもの

信頼する友人で編集者のNくんは、とても端正な文章を書く。論理的でシャープ。きっと頭の中も机の中も整理整頓されているんだろうな、京都や名古屋の道路みたいだなと思っていた。

彼は知識幅が広く、取材での反射神経もいい。しかも東大卒ということで、(単純ながら)わたしの中で「頭がいいひと枠」に入っていた。つまり「地頭がいいから理解力も高く、あんな文章が書けるんだろうな」と勝手に納得していたのだ。

ところがどっこい、が起こったのは2年前。彼と一緒に仕事をする機会があり、「新卒で入った出版社ではじめて書いた」という原稿を見せてもらったときのこと。その文字の連なりを、まじまじと眺めた。

「Nくんって」

「うん」

「生まれつき文章がうまいんじゃないんだね」

「なにそれ」

そんなばかみたいなことばを発してしまうくらい、おどろいたのだ。支離滅裂で要点を得ない。論理もおかしい。なにより、伝わるものがなくおもしろくない。これを書いた編集者と、わたしが一目置いている友人が同一人物だとは信じられなかった。

「かわいい。昔のNくんに、猛烈にかわいげを感じている」

あまりの拙さになぜか母性本能をくすぐられ、ひとり大笑いしてしまった。

なぜ旧Nくんは、現Nくんになったのか。

その理由こそ、彼が同時に見せてくれた、かつての上司の朱字だった。びっしりと書き込まれた、元の文章がよく見えないほどの朱字。それをひとつずつ咀嚼し、理解し、納得し、自分のものにしてきたから「いまの自分」がいるんだ、そうNくんは言った。雑誌だったからこそこういう経験ができた、と。

真剣に入れられた朱字によって、文章は上達する。

——そしてそれは、わたし自身も「そう」なのだ。

わたしが所属しているライターズ・カンパニー、つまりライターが集まる会社「バトンズ」による学校が今夏、スタートする。

その名も「バトンズ・ライティング・カレッジ」。

この学校の構想を練っている段階で、代表で学校長となる古賀さんが「1000枚のフィードバック」というコンセプトを口にした。

毎回提出していただく課題は、フィードバックを含め、全受講生で共有します。仮にひとり当たり4枚のフィードバックがあるとして、30人分だと最低でも毎回120枚以上。それが全8回にわたってくり返されるわけですから、卒業時には合計1000枚以上もの原稿とフィードバックを共有することになります。(サイトより)

そのとき、「それしかないだろうなあ」「正気か?」、ふたつの思いが並行に走った。

まず前者として、古賀さんはバトンズでわたしの原稿にフィードバックし続けてくれている。6年前の設立当初から今日まで、ずっと。あきらかな修正は赤で。提案は青で。理由は緑で。

直筆でみっちりと入れられたそれらの朱字、そして口頭で伝えてくれるコメントはおそらく、「バトンを渡す」ことの体現だったのだと思う。このフィードバックによって、わたしはまちがいなく——少なくとも6年前よりははるかに——いいコンテンツをつくれるようになった。だから、「それしかないだろうなあ」。

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(初期の朱字)


でも、だからこそわたしは知っている。フィードバックは、めちゃめちゃ大変だということを。

される側も落ち込んだり悔しかったりするけれど、する側だってとんでもない労力と時間を要するものなのだ。

これは誤解されがちなところだけれど、朱入れ(添削)とは決して、原稿を「直してもらう」ことではない。文章そのものや書かれた対象、書き手までを深く「読む」行為——いわば、1対1の「取材」——をふまえて、その原稿をよりいいコンテンツにするための提案や意見をもらうプロセスだ。

ときにうなりながら、考え込みながら真剣に「読む」のだから、大変に決まっている。しかも今回は、取材音源もその対象だという。

だから、「正気か?」と思った。わたしひとり相手であんなに時間がかかるのに、毎回、全員分、やるのか。本気で。途方もない。


——でもやっぱり、「それしかないだろうなあ」なのだ。どれだけ時間がかかっても、古賀さんがへろへろになっても。

だって、「バトンズの学校」なのだから。

それが受講者の力になると、いいライターを育てると、信じているのだから。

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(2015年、書籍原稿の朱字。中央上部に「ここからのロジックが甘い」と書いてある。そのとおりだった)


では、そもそもどうしてフィードバックはライターを育てるのだろうか。

古賀さんは以前、こんなことを言っていた。

「読み手としての自分が100点なら、たとえ書き手としての自分が70点でも最後に引き上げてもらえる」

きびしい目で読める自分がいれば、原稿の「こうすりゃもっとおもしろくなる」にも「ここがおかしいでしょ」にも気づける。第一稿よりはるかにいいものを世に出せる。——これは「いい書き手になる」よりイメージもしやすい。

とはいえ、読み手としての自分を鍛えるのも、かんたんではない。いま自分が「いい読み手」なのか判断しづらいし、「読めていない」ひとは「読めている」状態を知らないのだから、成長できているのかどうかもよくわからない(身も蓋もないけれど)。

だからまずは「研ぎ澄まされた読み手の目」を借りてしまおう、というのがフィードバックだ。優れた読み手はどう読んでいるんですか、ちょっと見せてくれませんか、と。

フィードバックをとおして「よく見える目」を借りる。
圧倒的な視力でものを見る。色彩のあざやかさや視野の広さ、立体感までもまったくちがうことを知る。
自分がいかに「見えていなかった」かに気づく。
「見えるひと」の見え方をインプットする。
そのトレーニングを重ねるうちにだんだんピントがあってくる。視力がよくなる。

……結果、いい原稿を書け上げられるようになる。これがわたしの考える、フィードバックの効力だ。

すぐに文章に反映できるノウハウとはちがい、地道な方法かもしれない。だって、自分自身を変えていくわけだから。

でも、だからこそ半年以上かけて受ける「1000枚のフィードバック」は、「ステップアップしたい」「いいコンテンツをつくりたい」「長く活躍したい」と考えるライターさんにとって価値あるものになると思うのだ。

もしかしたら、「うっ」となったり、気圧されることもあるかもしれない。

けれど最終的には、お守り——これだけやってきたんだ、大丈夫だと自信を与えてくれる存在——になるんじゃないだろうか。なってほしい、と思う。

いま、わたしのデスク前にずらりと並んでいる紙束が、そうであるように。


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バトンズ・ライティング・カレッジ、よりよい場になるよう、古賀さんを中心にチームのみんなで鋭意準備中です。

なにか気になることがありましたら、いつでも気軽にお問い合わせくださいね。

あと、質問箱にて質問も受け付けています。原稿のこと、仕事のこと、キャリアのこと、学校のこと、『取材・執筆・推敲』のことなど、なんでもお寄せください(バトンズや古賀さんについて知りたい、などありましたら、もちろんわたしにご質問いただいても大丈夫です)。


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