垂れ流したもの

トイレはきれいな方がよいというのは、汚物が地上への未練のようなものを表し、未練があるなら地上から離れることができず、輪廻の外に出ることができないからです。

確かに目的や意図、意志があるにも関わらず、地上的な色々によって、やりたいことをやらず、言い換えればやるべきことをやらず、地上的価値観に染められたものに一生懸命になることは、ティファレトからイエソドに注がれるものを、目の粗いザルで受け取り垂れ流しているようなもので、垂れ流されたものは汚物としてトイレの汚れになり、なんでこんなトイレに入らなければいけないんだ、ここでは「用を足せない」となります。なんでこんなところで生きなければいけないんだ、やりたいことができない、と不満を持つようになるということです。 やりたいことをやり、やりたいことをやっていると実感し、自ら意味を見出し確信することで、ザルの網目は細かくなっていきます。ザルと言っているけれど、この器は自信や安心に関係するもので、器が穴あきでもひび割れでもなく安定していると、チャレンジする勇気があり、器を大きくすることができます。人それぞれ器には装飾があったり形も様々ですが、あらゆる体験によって、この器は普遍的なものへと変化していきます。地上的信念体系ではなく、自分のことは自分でやることができると、垂れ流さなくなっていきます。

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