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僕らは午後遅くアキラさんの家を出たが、そのままそれぞれの部屋に戻るのもなんとなくためらった。

「京都のどこかに行こうよ、先輩」ヒカリは時々以前のように先輩と僕を呼んだけれども、僕は気にはならなかった。「先輩と今、結婚したいよ」

ヒカリにそう言われて、僕もまったくその通りだと思った。この夏たくさん旅をしてきて、カナタさんやアキラさん、そして僕のママにも直接出会って話し合い、すべてはそこに向かっていると実感した。

「了解!」と僕も笑って答えた。「今日、今から一気に結婚しよう」

「とは言っても、教会とかめんどくさいなあ」ヒカリは僕以上のめんどくさがり屋だった。「とは言っても、役所に結婚届は明日でも提出できるし」

「そうだ!」と僕は言った。「哲学の道で結婚を誓いあおう」

「いつも行ってるところだなあ」ヒカリは大きな声で笑ったあと、やさしくつぶやいた。「オッケー、哲学の先人たちに祝福してもらいましょう」

「先人って?」僕は哲学の道の近所に住んではいたが、具体的な哲学者のことはあまり知らなかった。

「わたしも、知らない」ヒカリはまた大笑いして僕の手をとった。

僕たちがいるそこから、哲学の道は白川通を渡ってすぐのところにあった。

「ま、いいか」と僕は言い、白川通を渡って哲学の道へと我々は歩いた。

 **

予想通り哲学の道は観光客だらけだった。我々は相談していつもの蕎麦屋に入ることにした。その古い蕎麦屋は地元の常連客だけしかおらず、その日も数組の中年客がいるのみだった。

僕はなんとなく、「結婚するんだし、良いか」とヒカリに言って、熱燗を一合つけてもらった。

「良いよ、良いよ」ヒカリはそう言ってお猪口を両手で持った。「鬼平犯科帳風に結婚しましょう」

「ここは江戸ではなく、京だけど」と僕は言って、2人でチアーズした。

「僕たちに」

「わたしとひかるに」とヒカリ。

「ありがとう、ヒカリと僕に」

鬼平風の猪口には、伏見の安酒が並々と注がれ、その安い感じが今の僕たちになんとなくふさわしい、伏見・中書島の酒蔵たちも喜んでくれているよと、僕は言った。

「ひかる」と、今度は名前で僕のことをヒカリは呼んだ。「さっきおばあちゃんのところで話が出た、一緒に住むと、わたしたちはすぐに喧嘩しちゃうのかしら」

「するだろうなあ」僕はお酒を一口飲んでいった。「こうやって僕たちが会うことが、旅行や結婚式ではなく、毎日の当たり前になるんだろうから」

「何かが許せなくなるのかしら」ヒカリも猪口から一口飲んで言った。「だから人々は、喧嘩をするのが嫌で、セックスしたり子どもをつくったりするのかしら」

「そのへんは成り行きのカップルも多いんだろうけど」僕は、蕎麦屋の外を歩く大勢の観光客達を見ながら言った。「喧嘩もセックスも日常なんだろうね」

「ごめん、先輩、そういうのはなんとなくツマラナイよ、わたし」ヒカリは猪口に酒を注ぎながら言った。「結婚って、そういうこと?」

「違うと思う」僕ももう一杯注ぎ、熱燗のお代わりといなり寿司を注文した後に言った。「我々は、まったく新しい毎日をそれぞれが見つけるために、結婚という儀式を通過するんだと思う」

それはまったくの思いつきだったのではあるが、言った後、僕は自分でも変に納得してしまった。

「先輩、哲学者みたいだよ」とヒカリは言った後、テーブルに置いた僕の猪口に自分の猪口を軽く合わせ、

「よろしくお願いします」

と言った。

 **

我々は結婚し、1人か2人の子どもをつくり、毎日必死に勉強し、学生の間はそれぞれの親に養ってもらい、卒業した後は必死に働いて親に恩返しし、そして僕たちの毎日も徐々に徐々につまらなくなり、というイメージを僕は抱くのを拒否している、とヒカリに僕は言った。

「わたしが描く、毎日の新しさは」とヒカリは言って、伝票を持って立った。「先輩、哲学の道をイヤホンをして歩こう」

支払いはヒカリが済ませ、僕が礼を言っている間、彼女は自分のイヤホンを僕の耳につけた。それはワイヤレスだったので、我々がコードでつながることはなかった。

彼女は鞄からもう1組のイヤホンを取り出し、自分の耳につけた。そして鞄から2つのiPhoneを取り出して、ほぼ同時に音楽をかけた。

彼女は、iPhoneのひとつを僕のポケットに入れた。

僕の耳は、ヒカリがかけた音楽と、ノイズキャンセルが強力にかかった閉鎖された音空間と、なぜかヒカリが小さく息する音を意識することができた。

「iPhoneのマイクが私の声を拾ってるんだよ、先輩」と同時に、彼女は僕の手を強く握った。音全体が閉じてしまった奇妙な静寂の中に、誰かの演奏するジャズ、そしてヒカリが息する音が空間を満たしていた。

視覚には、哲学の道を歩く大勢の観光客が映し出されていた。僕はその奇妙な感じを、イヤホン・マイクを通してヒカリに言ってみた。

「僕らは、地球のキョウトに堕ちてきた異星人みたいだ」

「デビッド・ボウイみたいですね」とヒカリは言った。

そう言われて僕は、数日前までそこにいたフジロックフェスティバルを思い出し、京都にいるヒカリとiPhoneで交わしたやりとりを思い出した。そして、ヒカリがこう書いたことも。

【「And the stars look very different today こちらは多くの星が見えています、それは地上から見るのとはまったく違います。あ、今日はわたしが少佐になったよ、先輩!」】

 **

「酸素」と、僕は、昼間のアキラさんとの会話を思い出してワイヤレスイヤホンにつぶやいた。

「空気じゃなくて」ヒカリもイヤホンにつぶやいた。音楽はいつのまか止んでいる。イヤホンを通して我々の耳に届くのは、互いの囁き声と、ノイズキャンセリングでもキャンセルしきれない、哲学の道を歩く観光客たちの遠い喧騒だ。

「ヤマネコの水晶」と、次に僕はつぶやいた。アキラさんと亡きご主人との間で共有するイメージだ。

「わたしたちがおじさんとおばさんになっても」ヒカリは僕の手を握っていった。「酸素や水晶は見えるのかしら」

「たぶん、それとも違うんだと思うよ」僕はまた直感的にイヤホンに囁いた。「昨日のずっと前から、そして結婚を誓った今日とこの先数年も、またおじさんとおばさんになった何十年も先も」

と、そこまで僕が言った時、哲学の道に雨が降り始めた。

その雨は急で、小雨の段階が短い、いきなりの本格的雨だった。

仕方なく、僕もヒカリも雨に晒されてしまった。

「音は大丈夫。イヤホンは防水なんだよ」ヒカリは上を向いて言った。

「この雨粒のように」今日の僕は珍しく冴えていた。「毎秒毎に、僕たちを濡らし、包み込むんだよ」

「何を?」ヒカリは雨に濡れて嬉しそうだった。「あ、わたしたちふたりの、すべての瞬間か!」

「たぶん、雨粒は僕らを守り、いつのまか僕らのすべての時間を守ってくれてるんじゃないかなあ」やっぱり、今日の僕は冴えていた。

ヒカリは自分と僕のイヤホンを外してバッグに入れ、哲学の道の真ん中で僕にキスした。僕もそれに応じ、周辺の観光客は無視して全員が通り過ぎたが、空から落ちてくる雨粒は、その一粒一粒がチアーズと言って笑って僕らの足元に堕ちていった。


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