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生まれた性にくつろげる人は、本当にいるのだろうか?〜赤坂真理『愛と性と存在のはなし』

盲導犬を訓練によって一人前にするはとても難しいのだそうだ。訓練すればすべての犬が盲導犬になれるわけではない。ではなぜ難しいのだろうか。それを考えたのが「環世界」という概念を生み出したドイツの生物学者、ヤーコブ・フォン・ユクスキュル(1864〜1944)である。

素人の自分が解説するのもおこがましいけれど、環世界というのは、個々の動物がそれぞれの仕方で認識している世界のことだ。「動物には世界がどう見えているか」ではなくて、「彼らは世界をどう見ているか」をユクスキュルは問いかけた。それぞれの動物には、自らの生存のために他の動物とはまったく異なる物のとらえ方がある。

盲導犬を訓練によって一人前にするのが難しいのは、犬の環世界、つまり犬がもともと持っていた世界のとらえ方を変えて、目の見えない人の環世界に近づけなければならないからだ。一匹の犬を盲導犬にするためには、その犬が持っている環世界では気にもとめないようなものに、わざわざ気を配るようトレーニングをする必要がある。その環世界の移行はきっと、たいへんなものだろう。

自分とはちがう世界の見え方をしている存在のことを、私たちはどれだけの想像力をもって受け入れることができるだろうか。今回刊行した作家・赤坂真理さんの新書『愛と性と存在のはなし』は、そんな問いに貫かれている。

私たちは誰もが、望むと望まざるとにかかわらず「性的存在」として生きている。人は性を抜きにしてはたぶん生きられない。そんな性のかたちも以前より、LGBTQという言葉が示す通り、多くの言葉が与えられるようになった。多様性を認めようという議論も盛んだし、多様性を認めたくない人たちの暴言も盛んだし、なにより男女をめぐる言説はすさまじく分断している。

しかし、と赤坂さんは問う。そんな議論以前に、そういう既成の言葉やお題目があることによって、私たちは何か大切なことを見失っていないだろうかと。オビの裏に引用した一節を引用したい。

「性自認と性指向に多様性を認めよう」というのは、けっこうなことだと思う。でもその前に。一人ひとりが、自分と自分の性についてわかっているんだろうか。わかっていない。わたしも含めてわかっていない。真剣にわかろうとたことがほとんどない。そう思う。いわゆる「セクシュアル・マイノリティ」を語るときに盲点となるのは、無意識に「ヘテロセクシュアル(異性愛者)には問題がない」という気持ちになることだ。そうなんだろうか?ある意味、ヘテロセクシュアルほどむずかしいものはない。世間的な通りのよさを除けば、ヘテロセクシュアルほどむずかしい関係性はない。そんな気さえ、この頃する。

「男と女(やそれ以外)はなぜわかりあえないのか」ではない。「すべての人に性的多様性を認めよう」でもない。「すべての人に性的多様性はあるのではないか」というのがこの本のテーマである。でもどうやってそんなことを問えるのか?

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作家に代わってこの本の主張や結論を紹介したり、要約したりするつもりはない。ぜひ本を読んでいただけたらと思う。編集者の立場から言えるのは、この本は、むずかしい問いに答えを探して、戦後日本という特異な時空間における社会批評と、作家本人の実存の探求を融合させて、本文の言葉を借りて言うならば、「ふるえながら、差し出してみた」1冊だということだ。アメリカで天皇の戦争責任を問われる少女を通して戦後を考えた代表作『東京プリズン』や、そのスピンオフ的な評論である『愛と暴力の戦後とその後』も、まさにそんな作風である。

戦争に負けた国の男たちとはどのような存在か。フェミニズムや#Metooなどの社会運動はどこへ向かっているのか。ゲイのスターを描いた『ボヘミアン・ラプソディ』は、なぜ伝記映画として異例のヒットを記録したのか。「草食男子」と言われるけれど、なぜ人間だけが恋愛に狩りのイメージを持てるのか。

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全編を通して読むと、本書はとりわけ現代における男の生きづらさが深く考察されていることに気づくだろう。そこには、ヘテロの女性という立場から、男性を「ひとつの話の通じない生物」として見なすのでなく、自らの環世界を拡張するように、いたわりと慈しみをもって生きづらさを想像する、作家の揺るぎない信念を見ることができる。

また、いわゆる「セクシュアル・マイノリティ」とされるトランスジェンダーの友人の話や、性志向の一種であるマゾヒズムの人のエピソード、あるいは高度にシステム化された結婚制度を持つインドの男性の話といった、一見すると自分とは限りなく遠いように思える存在から、人間にとって普遍的な性と愛の問題を抽出していくのも本書の読みどころだ。

この本の最初の打ち合わせは、4年前の御茶ノ水、山の上ホテルのラウンジだった。作家本人の一番核にあって、それがゆえにずっと出せなかった問いだったという。赤坂真理さんと長い時間をかけてこの本を一緒に生み出せたことを、編集者として感慨深く思っている。

私たちは、繊細に見ると個々にさまざまなグラデーションを持つ自分の性と、勇気をもって向き合えるだろうか。「べき論」や権利論や綺麗事を超えて、自分と異なる性志向を持つ人のことを、どこまで想像することができるだろうか。

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盲導犬は、長い訓練の末に目の見えない人の環世界を内面化し、彼らとともに生きていく。いま必要なのは「性的多様性を認めよう」「ひとりひとり、みんな違ってみんないいよね」というクリシェではなくて、訓練中の盲導犬のように、自分の世界を、誰かの「環世界」を想像しながら、日々あたらしく作りかえていくことではないだろうか。

『愛と性と存在のはなし』、そろそろ書店に並び始めました。できたてほやほやです。どうかよろしくお願いいたします。

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