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(少し天然な)母との思い出

いつも「スキ」を頂いて本当にありがとうございます。
今回は母の命日が近いので、いつもとテイストが違いますが少し天然な母を紹介させてください。

「母」との思い出と言ったらやはり「鍵」になります。
はい、家の「鍵」です。うちの両親は共働きで日中は家にいなかったのですが、僕を含め妹弟のだれも「鍵」を渡されていないという状態でした。
僕らが学校に向かって、最後に母の出勤。玄関を閉めた後にその「鍵」を玄関脇に置いてあったジョウロに母が入れておく約束になっていたのですが、その「鍵」をジョウロに入れるのをまぁよく忘れる。その時のエピソードになります。

小学生5年生のある日、小学校が終わって家に帰ってジョウロを確認するとその「鍵」がない。『またかよ』と思った瞬間、強烈な便意が襲ってきました(食事中の方、すみません)
どうにか母(おふくろと言っていたのでここからはそう呼ばせてください)が帰ってくるまで待とうとしましたが、それまでは2時間以上はある。それに友達とこの後遊ぶ約束もある。
大波、小波が数分単位で襲ってくる、脂汗は止まらない、近くに公園があるわけでも児童館があるわけでもない、移動する時間もない。出てくる言葉は『(おふくろの)くそが!!!』。そのくそを我慢しているのですがw

はい、しちゃいました。玄関前で。
何でお尻を拭いたのか覚えていないのですが、すっきりした僕はそのまま友達の家に遊びに行ったのは覚えています。
2時間後に家に帰ったら、お袋がホース片手にその「うんこ」を流している光景が。ただそのものがとても大きくてホースから出てくる水力ではまぁ全く流れない。水がモーゼの如く「うんこ」をかきわけている、そういう光景が目に飛び込んできました。
『やばい、怒られる』と思った瞬間、おふくろと目が合いました。
そして一言。
『兄ちゃん。ここ大きい犬がおるよ、こげん大きなうんこをする犬がおる。気をつけんと』
それ犬ではなく僕です。。。

またある日のこと。昼休みに笛を忘れてしまったことに気づいた僕。
午後からの音楽の授業でテストがあるというのにその肝心な笛を忘れてしまった僕。
当時、忘れものに関して相当うるさい担任だったので鉄拳制裁(ビンタですね)は免れない。
焦った僕は学校からどんなに走っても20分はかかる距離にある家へ猛ダッシュ。
はい、玄関が開きません。鍵がありません。
ここでも『(おふくろの)くそが!!!』です。
もうアタマに血が上った僕は、泣きながら『くそが、馬鹿が』と喚きながら玄関のドアを叩き続けました。

「パリン」

玄関ですがガラス入りでして、そのガラスが見事に割れてしまってました。引き抜いたこぶしも血だらけです。
ガラスを割った。
こぶしは血だらけ。
学校に戻らないと。
ビンタも怖い。
パニックになった僕はその割れたところから玄関を開けるということも忘れ猛ダッシュで学校に戻りました。
運動場の水道で血だらけのこぶしを洗ったのと、先生のビンタは覚えています。

そして放課後。
家に帰ると見慣れない車が。
パトカーです、玄関前にパトカーとお巡りさんに鑑識の方々が立っていて、おふくろと話している光景が目に飛び込んできました。
そして、これまた『やばい、怒られる』と思った瞬間、おふくろと目が合いました。
そして一言。
『兄ちゃん。ここ泥棒がおるよ、泥棒がガラス割って入ったみたいんよ。何か盗られたもんがないか確認し(なさい)』
泥棒は僕です。。。

それから28年後の10月に北九州市の親父から電話がありました。

おふくろが癌になったと。

僕ら家族の力が試されました。
初めはほんと軽く考えていました。
すぐ直るだろうと。
ただ親父が僕らに伝えてきたときは、実は結構進行してて、しかもその進行スピードが思ったより早かった。

それでも本人も僕ら家族も誰一人として諦めなかったです、最後まで。
ほんといろんな手を尽くしました。
が、半年後におふくろは亡くなりました。

葬式の前日に、玄関前の庭に咲いているたくさんの花を摘みました。
おふくろが丹精込めて育てた花を棺に入れるため。
豪雨の中、花を摘みました。
僕は一生あの光景を忘れません。

そこから丸9年が経とうとしています、早いものです。
おふくろには入院中にさきほどお話しさせていただいた2件の話は伝えました。

『あれさ、僕だよ』と。
『あれ、兄ちゃんだったんね。よかった泥棒じゃなくて』と。
笑いながら言ったおふくろの笑顔が今も忘れられません。




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