台湾ひとり研究室:映像編「Netflixドラマ『模仿犯』コンプリートのご報告。」
今年3月末から配信スタートしたNetflixドラマ『模仿犯』、大変遅ればせながら観終わりました。以下は、若干ツッコんだ紹介になる可能性が高いので、まだ観てないよ、という方は観終わってから先へお進みくださいますように。
さて、原作を日本と台湾で買い求め、新潮文庫全5巻を読み終えてからのドラマ10話を視聴。我ながらナントモ贅沢な楽しみ方!と思う一方で、作品の世界をヒリヒリしながら最終話まで駆け抜けました。
観終わった今、心地よい疲れを感じています。単に作品を観るだけでなく、アタマが原作と行き来していたからかもしれません。ドラマの山場に向かうに連れて(あ、あのエピソードはここに来たのか)(え!あの伏線だ!)(原作のあの人だな)などと、ストーリーや相関図がパズルのようでもあり、ゲームの隠しアイテムのように潜んでいたからです。
ちなみに、これはかなり以前からだと思いますが、台湾ドラマの制作は原作へのリスペクトや愛が原動力になっています。たとえばアイドルドラマ全盛の頃に制作された多田かおる先生の『イタズラなKiss』は、原作ファンで全巻揃えていた私をも(再現性高っ!)と楽しませてくれる作品に仕上がっていました。だからこそ、ドラマ『模仿犯』を観るならきちんと原作を読んでおこう、と思ったわけです。
台湾制作のドラマ『模仿犯』は、原作小説『模仿犯』の世界観や設定を大事にし、原作へのリスペクトがしっかりと感じられる作品でした。ええ、個人の感想ですけども。
大枠としての舞台は、1990年代の日本と1990年代の台湾ということで決定的に違います。主演の吳慷仁は原作には出てこない人物、という点に引っかかる方もいるかもしれません。それでも、登場人物の特徴、人物同士の相関関係、登場人物が抱える個別の課題、家族というもののもつ普遍的な問題、時代の描写、仕掛けや犯人の動機……そこかしこで原作の設定がしっかり反映されています。
原作の反映方法は、いろいろでした。原作で犯人と一緒に事故死したカズはドラマでは弟の立場でしたが、ディスレクシアではなかったし、原作でライターとして登場した前畑滋子はテレビ局の記者、お豆腐屋の有馬義男は廟の主委となっていました。原作を読んだあととはいえ、気づくのに時間がかかった設定もあったりなんかしたりして。答え合わせとしても楽しみました。
それにしても「悪」の描き方は難しい、と改めて思います。本作は「人間の悪」を物語という形で表現している。悪を描くという意味で小説『模倣犯』とドラマ『模仿犯』は、物語という形式は同じだけれども、表出の仕方/させ方が少しばかり違う。その違いが単にテキストと映像の違いから来るものなのか、はたまた「悪」の捉え方の違いなのか、この点はまだ私は消化できていません。ただ、原作とドラマではストーリーにおける「模倣」の意味というか定義が違ったように思います。ドラマ版では原作とは違った意味で「模仿」が描かれていたように感じたのですが、ご覧になった方、いかがでしたでしょうか。
ドラマの予告動画の中に、主演の吳慷仁が原作者の宮部みゆきを訪ねる動画があります(リンクはこちら👉)。この中で宮部さんは「人間にとって何が良いことなのか何が悪いことなのかということを、ずっと深く問いかけてくるドラマ」と表現していました。観終わった今、(核心をついてるなあ)と改めて思います。観ている間は、まるで自分も追い詰められたような気分だったのですが、それは観る人に善悪の境界線の位置を問い、観ている人それぞれに答えを出すよう、迫っているからかもしれません。
あ、ひとつだけ。かなり暴力的なシーンや残酷な殺戮シーンが頻繁に出てきます。関連動画で特撮のスタッフが、傷にリアリティを出すよう心がけた、と言っていたので、苦手な方は視聴の際、お気をつけください。
悪がより深い闇である絶望へと転がり落ちていくような、そんなストーリー。その、転がり落ちていくきっかけは、今の私たちの暮らしのそばにも潜んでいる。悪の道へと転落しないために必要なものは何なのか——ぜひお楽しみください。
ドラマ冒頭の映像はこちら👇
勝手口から見た台湾の姿を、さまざまにお届けすべく活動しています。2023〜24年にかけては日本で刊行予定の翻訳作業が中心ですが、24年には同書の関連イベントを開催したいと考えています。応援団、サポーターとしてご協力いただけたらうれしいです。2023.8.15