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台湾ひとり研究室:本屋編「《永遠的台灣島》と竹内昭太郎さんのこと。」

今年2月13日、台湾で刊行された《永遠的台灣島》の新刊イベントに参加するため、誠品書店へ向かった。イベントコーナーとして、感染対策のために区切られた向こう側に設けられた30ほどの席は9割方、埋まっていた。この種のイベントには数知れず参加してきたけれど、全体を見渡したい私はいつも後ろに陣取る。客層は20代から60代くらいまでと幅広いことに気づいたのも、後ろで見学していたからだった。

「台北高等学校の同窓会で卒業生の皆さんが個人的な感想を寄せた文集の形は何冊も刊行されています。ですが、卒業生個人が、終戦前後の台湾について1冊にまとめ、かつ台湾で中文版として出版された最初の書籍です」

こう話すのは、台湾師範大学台湾史研究所で教鞭を執る蔡錦堂老師だ。蔡老師によって、1990年に出された日本語版書籍のあらましから今回の中文版刊行に至る経緯、著者の竹内昭太郎さんと台北高等学校のことなど、書籍にまつわる全体像が紹介された。

原書は日本語で『臺灣島は永遠に在る』という。私が初めてこの日本語版の原稿を手にしたのは、2018年のことだ。自費出版のテイで刊行された同書は、市場では手に入らず、台湾の図書館で借りたものを「絶版だから」と印刷屋に頼み込んで1部刷ってもらい、のちに著者である竹内昭太郎さんにサインしてもらった。その1冊を、繰り返し繰り返し読んだ。

著者の竹内昭太郎さんは、本来ならこのイベントの行われる翌週、95歳の誕生日を迎えるはずだった。だが、本書の刊行を心待ちにしていたであろう2021年11月12日、この世を後にされた。もし竹内さんが誠品書店のイベントスペースが満席になるこの光景を見たら、何とおっしゃっただろうと思うと、鼻の奥がツンとする。

真新しい台湾版の新刊は、竹内さんが過ごした旧制台北高等学校の校舎(今の台湾師範大学)に包まれている。中には、1927年台北生まれの竹内さんの初節句以降の写真の数々、関係者によるメッセージ、蔡先生の解題、充実の注釈……と、日本語版の簡素さとは様変わり。あれこれ含めて、日本語版を再販してほしい出来栄えだ。

ところで、なぜに竹内さんに堂々と海賊版!にサインまでもらうような真似をしたのか。台湾師範大学の修士課程に進学し、修論のテーマとなったのがまさに竹内さんご本人だった。同書中文版の解題者であり、指導教官となった蔡老師によるご縁で、インタビューをもとに竹内さんのことを論文を書かせてほしいとお手紙を送ったのは、2018年6月のこと。翌月、品川のミスドでお目にかかった。

ループタイにワイシャツ、スラックスという姿で現れた竹内さんは、お祖父様の話に始まり、高校時代前後まで伺った。約2時間近く、しゃべりっぱなし。原稿を見ることなく、話は立板に水の如く続く。その日の音源は、のちに何度も聴くことになるのだけれど、その頃の私は、まったく的外れとしか言いようのない質問ばかりしていた。

それから幾度かのインタビューを経、論文という形にして、竹内さんにお目にかけるまで丸3年かかった。竹内さんに目を通していただいたあと、審査委員の査読を経て修正を加え、完成させた論文は「移動與境界—臺北高校生・入管官僚竹內昭太郎的記憶分析」として、台湾の国家図書館で中文版を読むことができる。竹内さんにお目にかけた日本語の原稿は手元にある。目下、どうすればたくさんの人に読んでいただけるか、思案中だ。

竹内さんにお話を伺ったのは10時間、さらに主宰の会合やお電話など含めると、20時間近くになるだろうか。それ以外に、『臺灣島は永遠に在る』や各種原稿を含めて資料を読み込むのはもちろん、帰国時に国会図書館に籠って、閉館まぎわまで居座った。

1世紀に渡る歴史をひも解いてゆくには、とにかく時間が必要だった。なにしろ知らないことだらけだったから。正直に明かせば『臺灣島は永遠に在る』も、最初読んだ時にはピンと来なかった。大学院の授業を受けつつ、資料を探すなどして、1つずつ辿ってゆくうちに、竹内さんの筆のすごさが立ち上がってきた。論文を書き上げるまでに大学院在籍期限である4年もかかったのは、まあ、同書を読む力をつけるのにかかった時間と自覚している。

忘れられないのは、最後になった竹内さんとのお電話だ。その何日か前に書き上げた論文をプリントアウトしてお送りした。到着の有無を確認しようとかけた電話で「あ、田中さん!」と言われて驚いた。

というのも、それまで名前を呼ばれたことがなかった。子どもの頃は「開闢以来」と名のついた竹内さんが、覚えられなかったわけはない。考えてみれば、縁もゆかりもなく、どこの馬の骨ともわからんヤツが、自分のことを書きたいと言っている。どんな内容になるか知れたもんではない。いぶかしがって当然の状況である。

お電話で、一気に読んだと言ってくださった。「まあその、細かいことはいろいろあるかもしれんけど、情報を足してくれればいいから」と修正を言われたのは1箇所。名前を呼ばれたうれしさと同時に、気がかりだった関門を通過した安堵でため息が出た。あの日、回線の向こうから聞こえた「田中さん!」のひと声は、今も耳にこだまする。

竹内さんが語り、そして書いてくださった来し方は、紛れもない台日関係史の一面である。『臺灣島は永遠に在る』には学徒兵と引き揚げの体験、そして終戦から25年後の再訪が記されている。30年以上たった今、同書が翻訳されて台湾で発売された意義は深い。論文では、同書にはない、竹内さんの個人史と竹内さんがその後勤務した出入国管理局時代に見聞きした台湾の人たちとのエピソードを収めた。裏付けが難しく、収めきれなかった事柄もあるが、どれも歴史の貴重な1ページだ、と確信している。

終戦から77年。縁あって竹内さんにお話を伺うことができたが、おそらく別の方に伺ったら、また別の話があるに違いない。台湾生まれの、お一人おひとりは違う人生を歩んだのだから。戦争によって国の状況が変わり、移動を余儀なくされる人たちが生まれる。移動すれば境目は揺らぎ、境界の内側にいた頃とは違った姿が見えてくる。

残念ながら、竹内さんが書いたことを思い起こさせる事態が起きて1か月が経つ。台湾に関するきな臭い言われ方もあちこちで見かける。でも、だからこそ、先達の記憶を辿り、二度と起こさないためにどうするか。そのためにも、《永遠的台灣島》も『臺灣島は永遠に在る』も読み継がれてほしいと強く思う。

勝手口から見た台湾の姿を、さまざまにお届けすべく活動しています。2023〜24年にかけては日本で刊行予定の翻訳作業が中心ですが、24年には同書の関連イベントを開催したいと考えています。応援団、サポーターとしてご協力いただけたらうれしいです。2023.8.15