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お互いさまで笑われる

 私は誰に何を言われても平気。好きだと思う人たちから揶揄されても馬鹿にされても平気。ただし否定されるのはいや。(ただしのただし、きらいだと思っている人から否定されても平気)
 それは私がその場にいるときでも、いないときでも平気。面と向かってでも、陰ででも、背後で指差しながら笑われても平気。
 私もするから。背後で指差しながら笑うことはしないけれど、きらいな人だったら否定もする。事実が大半だけど、事実の感想、いわゆる悪口も平気で言う。
 だから、誰かが私の悪口を言うのは当たり前。

 仲よしとか仲間というのではないけれど、顔を合わせればにこやかにあいさつをし、話をし、笑ったりなんかする人たちがいる(私はそれを外から見ているだけの関係)。当たり障りなく、感じよく接している様子に、大人の付き合いというのはこういうものかと思っていた。
 それが、誰よりもにこにこと愛想のいい人が口火を切り、その場にいない人のことを馬鹿にし始めた。みんなで大笑いし、あれこれ言い合う。
 ほう、あんな薄い関係でもこんなこと言うんだ。
 私なら、あんな薄い関係の人にあんな気持ちは持たない。どうでもいい人に割く感情を持ち合わせていない。
 もちろん、見ていてムカつく奴はいる。そういう人の悪口はどんどん言う。知りもしないのに妄想しながら、あることないこと言う。
 でも、そういう人とは口をきかない。
 あいさつをしたり、当たり障りない会話をする程度の人は、私には植木と同じ。

 馬鹿にして盛り上がっている人たちも、馬鹿にされている人も、仲のよさに大差はない(と感じた)。ということは、今いないAさんのことを笑っているけれど、明日はAさんとともにその場にいないBさんを笑い者にするのではないか。
 その場にいない誰かを肴に楽しむ。そういう人たちであり、そういう関係なのだろう。
 ということを、当事者たちは理解した上で付き合っているのか?
 その輪の中に夫婦がいたとして、夫婦だからターゲットにしない、ならない、ということはないと思う。夫が妻を、妻が夫を笑い者にする。夫婦だから家族だから、という信頼があったとして、本当にその信頼は機能すると思っているのだろうか。

 いない誰かを笑うことが悪いわけではない。自分が笑われることを承知した上であれば、そういう仲間もありだと思う。
 でも自分はそうならない、というか自分もターゲットになるかもしれないことに考えが及んでいない気がする。それでもし笑われていたら、笑われていることを知ったなら、どれほど傷つくことか。
 まあ、私の知ったことではないし、私の考えが間違っていて笑い者になっても傷つかないのかもしれない。あるいは、ちゃんと自分が笑われる番が来ることを知っているかもしれない。
 それならそれでいい。なんかちょっと思っただけ。

 ちなみに。
 私はとある人たちからポンコツとして愛されている。愛してると当人が言うのだから愛されているのだろう。少なくともポンコツとしてかわいがられている。
 私がそこにいるとき、ポンコツとしてかわいがられることが多い(こっちは”かわいがり”の意)。もしかしたら、いないときにもポンコツ例として取り上げられてるかもしれない。ネタとなってどこかでおもしろおかしく語られているかもしれない。
 それはそれでちっともかまわない。どんなふうに料理されようが、どんな場の肴になろうが、平気。
 そう思える人としか付き合わないから。
 そうじゃない関係に愛想よくしたり、時間を使ったりするのって、無駄だなー。なんてことを思う春の日。

(同じような内容で書いたことあったと思い出した)

 

 

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