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最近、というか年を経るごとに、もめごとを丸く収めたくなっている。
理由は簡単、面倒くさいから。

以前いたテニス界では、自らもめごとを起こしていた。
もめごとを起こしたいというより、変化を起こしたかった。
安穏としている重鎮どもは下っ端の大変さなど見ようともしない。うまいこと大変な部分から逃げて、安全な場所でのうのうとしている仕事はできないけど姑息なやつら。下っ端のつらさも理解しつつ、組織とはそういうものと放っておく中間管理職。そして、大変そうだからと背を向け、知らんぷりする有力選手たち。
もっとみんなが自分ごととして、全体を、そして末端を見て欲しかった。
損な役回りとわかっていながら手を貸している末端の人たちの待遇を改善したかったし、もっとみんなに協力してもらいたかった。
だけど、上は気づきもしない、中は自分たちが大変だから下が大変なのは仕方ないと放置、下は戦おうとしなかったり、仕方ないとあきらめたり。
空気を読めないやつの独りよがり。
もめごとというより、私のわがままでしかなかった。

で、面倒になった。
人が損をしているのを見るのは嫌だけど、その人がそれでいいなら私が口を挟むことではないと放っておくことにした。
それでも好きな人だったり、いい人だったりすると、どうしてもおせっかいを焼いてしまう。
だってそもそも、なあなあの馴れ合いが嫌いなんだもん。
空気を読んで、相手に迷惑かからないようにと気遣って、それとなく収めようとしたり、自分だけ我慢すればいいんだと思ってみたり。

それってどうだろう。
ぬるくない?

対立って悪いこと?
厳しいって悪いこと?
やり合うって悪いこと?
戦うって悪いこと?
自分の意見を表明するって悪いこと?
説教って悪いこと?
ダメ出しって悪いこと?

私は、みんなが「そうだよね」とにこにこしているのが好きじゃない。
「もしこうだったらどうする?」「こういう場合もあるよね」「こんなふうに考える人がいるかもしれない」「これで本当にいいと思ってるの?」
あえて反対の立場に回って、対立の構造を作り出す。
じゃないと、内輪のノリから抜け出せない。
私はそう思う。

楽しかったり、居心地よかったりは大切だけど、それじゃ床上30センチのものしかできないんじゃないだろうか。
いろんな意見や、角度を変えた見方、それもできれば超辛口の言葉を戦わせることで、床上60センチにできるんじゃないか。
つか、そういうやりとりがしたい。自分なら。特に仕事においては。

物事を突き詰めるには、対立は必須。
正面ぶつかって対立しているところに、斜め上から、真後ろから、色んな角度からさらに矢が飛んできて対立構造が複雑化していくのが理想。
それに対して、自分の考えを応用したり、広げたり、転換したり。
そんなふうにものを作りたい。
ひとりじゃなく、チームで仕事をする意味って、こういうことじゃないかな。たぶん。

そして、その対立はその場の話。それ以上でも、以下でも、以外でもなく。
人格否定でも、価値観否定でも、プライベートでも、好き嫌いでも、軽蔑でもなく。

よいものを作りたい。
楽しくやりたい。
きっと楽しいの意味が違うんじゃないだろうか。

よいものを作りたい。
そのための対立も楽しみたい。
戦うことは楽しい。
議論に私情を挟んじゃだめ。(← 私、なりがち)

対立や厳しさが物事の外皮を削っていき、ヘロヘロになった頃、核に到達できると思っている。
本質がなんなのか、核となるものがなんなのか。
楽しいだけでは見えてこない、大切なものがあると思うのだ。

そう、楽しい作業ではない。むしろ苦しい。
疲れる。精神的にも、肉体的にもダメージがある。
だから面倒くさい。
それだけの大変さを飲み込む価値が、それにはあるのか?

それだけの価値のある仕事をしている人がうらやましい。
私もやってみたい。まだ力が残っているうちに。

もめごとを丸く収めずに、とがったままにしておく。
とがった先から目に見えない点線が伸びてゆく。
先にはたぶん、疲れ切った顔と胸いっぱいの満足感が待っている。


ネコ4匹のQOL向上に使用しますので、よろしくお願いしまーす