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「おやすみ」と「おはよう」の狭間

 いつもの場所にいる。
 出かける前に冷や水を浴びせられるような出来事があって気力が萎えた。自分の時間と気持ちをないがしろにされた気がして、それは逆に気をつかわれた結果なのかもしれないと思いやる自分もいやで。でも、そのために自分が楽しみにしていたことをなきことにするのもいやで。
 外音に気分を左右される。弱い自分。繊細なんて格好つけた言葉で言い訳しているけど、ただ弱いだけ。
 私は弱くないもん!
 そう言い聞かせて家を出た。

 いつもの場所は、祝日前日曜営業をおおっぴらにしていないから、知る人だけが集まる。連日超満員だったのが、今夜はほんの4、5人。
 顔見知りばかりで、ばかなことを言ったりなんかして、和やかな時間が流れる。私は少しアグレッシブだったかもしれない。流れに身を任せるというより、2馬力ボートで突っ切っていくかのよう。
 いつもは少々遠慮していた。
「宅飲みの延長にしたくない」
 店主の意向をくみ、ほかに人がいるときは話しかけない。なにより、誰もがみな、店主と話をしたくて通う場だから、これまでたくさん話をしてきた私は少し遠慮する。どうせ最後までいるのだから、どこかで話せるだろう。

 なのに今夜は積極的に口を挟む。どうした、私。タガが外れるぞ。
 危険だなと思いつつ、でも自分を止められない。あっちもこっちも、どうにも納得できないことが保留になっていて、自分で自分を制御できない。心の赤信号を突っ切っていく。
 でも、抱えているものが爆弾だという自覚があるからだろう、場にさらすようなことはしなかった。歯止めがきく間に、ひとりふたりと帰っていく。
 あとは旅人の初見さんだけになったとき、なじみの人が入ってきた。ああ、ものすごく久しぶり。久しぶりすぎて、どう接していいかわからない。この人には誰にも言ったことがない秘密を打ち明けたはずなのに。
 なんてことない会話を、これまた和やかにしていたら、初見の人はホテルへと戻っていった。福井が好きで何度も来ていると言っていたが、次に福井駅近くに泊まったら、きっとまたここへ来るに違いない。そう思うほどに、店主の接客は見事だった。

 最近(自粛前)は、深い時間になってもほかに人がいることが多く、なかなか話すチャンスがなかった。が、今夜は3人きり。久しぶりではあるけれど、秘密を打ち明けるほどの人なので、何を話してもいい。
 安心できる人たちと一緒にいる時間は貴重だ。「心理的安全性」は日本だけの言葉らしい。基本、どこで誰といても、言いたいことを言っているつもりだが、それは思考を言っているだけ。感情や気持ちは話さない。でも、今このときは、安心して話せる。
 話が一段落ついたところで、「ねーねー、ぐち言ってもいい?」と切り出す。
 このときたくさん抱えた納得できない出来事から、なぜそれを選んだのかわからない。たぶん一番大きな心の闇を話すほどには覚悟がなく、細かな出来事はせっかくできた久しぶりの時間にもったいない。無意識のうちに、吐き出してしまいたかったそこそこのものを選んだようだ。

 ぐちの内容はクラファンの作業において、チームで動くことの難しさ。けれど、そこで指摘されたのは我々の「甘さ」。
 けっこうな大金を集めようとしているけれど、そもそもそこに公益性はあるのか? 私的なものになぜ支援が受けられると思うのか?
「そもそも2年シェアハウスを続けるために、どれだけのお金が必要なの?」と聞かれ、私は答えられなかった。今集めようとしてるお金は、その質問には一致しない。そっか、「2年存続させたい」とうたいながら、集めるお金は現在必要な改修・設備のためのもの。
 我々のQOL向上のためのお金を集めようとしているだけで、それを「お金ください」と呼びかけるのは確かにおかしい。支援金でこうなって、だからこの家に人がこのくらい集まって、それでお金が回って2年存続可能という未来が描ける。だから人は支援=投資する。

「シェアハウス内でチーム組んで案件とって稼いで、そのお金の一部を立て替えてくれた家主に返していけばいい」、確かに。ほかにも「ごもっとも」としかいえない詰め方をふたりががりで2時間くらいされた。
 なにも反論できない。だって、私もそう思うから。納得しかないから。
 そしてさらに厳しく詰められたのが、私の姿勢。
「アキさん、それは言い訳です。それは言っちゃだめです」
 クラファンのチーム・メンバーでありながら、都合悪くなると立ち位置を外側に置く私。内と外をのらりくらりと行ったり来たりしてる私に、ぐちを言う資格はない。
「ただ私はぐちを言いたかっただけなのになぁ」
 その一言で場が緩み、3時間ほどの詰めは終了。

 とはいえ、その後店主とふたりきりになってからも、話は行きつ戻りつしながら結局はクラファンと私自身の姿勢に戻っていく。すでに3時は過ぎている。いつもなら「そろそろ帰ろう」と言い出す時間だが、今夜はまったくその気配がない。
 (私が)あれこれと気をもむような話や、思い描く未来図、私とは異なる人間や社会、人生についての考察を聞く。その合間に詰められ、いやいや今はあなたのターンでしょうと心の中でつぶやく。
 私にとっては楽しい時間だが、はたしてこの人にとってはどうなのだろうといつも思う。「へー」「なんで?」「それってどういうこと?」「しょなの(そなの)?」と言う私では、議論にならない。「いや、じゃなくて」「それは違くて」と説明に終始する。
 そんな発展性のない話相手だが、だからこそ人に伝えるために物事を整理する役に立っていればいいなと思う。わからない人にもわかるように伝えるにはどう言葉を選べばいいか。ある意味、別バージョンの壁打ち相手。

 いつもなら話がダレたときにお互いスマホを見るのだが、今夜はどちらもほとんど見ない。飲みすぎて寝てしまうこともなく、ぽつぽつと話が続いていく。
 こんなにゆるゆると話が止まらないのは初めてかもしれない。いつもはもっとひとつのテーマにフルコミット!みたいなことが多かった。毎回、自分なりの問いを持ち帰る
 今夜は議論でもなく、対話でもなく、単なるおしゃべり。そう言ってしまうと、叱られるかもしれないが。
 だが、ときにこういう生産性とは別な話をすることも必要。もちろん「へー」っとなることもたくさん言ってくれているが、言葉があっちへ行き、こっちへ来、あっちへ行きするだけで楽しい。特に感情を吐き出しているわけではないけれど、発した言葉が絡め取った心の澱(おり)が 昇華していくよう。

 気づけば、もう6時。21時頃来店したから、かれこれ9時間もここにいる。看板をしまいに店主は外へ出、私はその間に荷物をバッグに詰め込む。立ち上がり、お財布を手にしていると店主が戻ってきた。
 と、またゆるゆるとおしゃべりを始める。あれ、帰るんじゃないの? 思わず私も座り、再びゆっくりと言葉が行き交う。
「そういえば、アルバイト先でこんなことあって、、」
 カメラマンでもある店主に、写真のぐちをこぼす。書いた記事に合う写真を選ぶように言われたが、そもそも「なんでこの写真撮った?」という写真しかなく、その中から選べと言われても選びようがない。
「だったらプロに頼めばいいじゃん」
「いや、プロが撮ったものなんだってば」
 そしてその合間に、またも詰められる。

「本当に写真に困ったら言って。いくらも手伝うから」
 この人の撮る写真は別格だ。そんな軽々しくお願いできるような人ではない。そもそもぐちをこぼした案件は、この人の表現の場に適しているとは言えないし、撮りたくはないはずなのに手を差し伸べてくれる。いつだって自分のリソースを差し出そうとする。私にだけではなく、誰にでも。
 財布を手にしたまま、1時間ほど話しただろうか、言葉を発する店主の顔を見ていたら、まぶたがゆっくりと閉じていく。
 ああ、もう限界だ。寝かせてあげなくては。「さ、帰ろう」。
 店主はお釣りを渡しながら「キツかったでしょ。いつもこんなことばっか言うから嫌がられる」と苦笑する。「耳ざわりのいい言葉ばかり言う人は嘘くさい」と言うと、「でもそういう人が好まれる」と返してくる。

 本人には伝えなかったけれど、私はいつもこの人が発するキツイ言葉を愛だと思っている。今夜の詰めも愛だと感じた。
 私が暮らすシェアハウスは夏休みの実家だ。「宿題したの?」くらいは言われるけれど、それ以上は放っておかれる。詮索しないし、問い詰めない。それは「よしよし」と頭をなぜてくれる(なでてくれる)ような優しさ。
 一方で、この人のは叱咤激励だと思っている。混沌とした中でもがく私(たち)を引き揚げるためにケツを叩き、励まし、背中を押してくれる。こんな面倒なことをしてくれるのを愛と呼ばずして何と呼ぶ。
 いつだってずっと話に付き合ってくれる。「なんで?」にずっと答えてくれる。自分が持っているものなら提供しようとしてくれる。「他人の時間を使ってることに気づけ」と言いながら、大切な自分の時間を削ってくれる優しさ。
 こんな愛にあふれた優しい人、そうはいない。甘やかすだけが優しさじゃない。他から打たれないように、厳しい言葉を投げるのも、詰めるのも優しさであり、愛だ。

 ドアを開けると、外はすっかり朝。7時を過ぎている。
「おはようなさい」
 店主の声に送られ、私は家路についた。



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