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相いれないことを相いれない人とは相いれない

 自分と同じ考えの人と出会ったことありますか? 私はないです。近い人はいても、まったく同じ人なんていないと思う。いたら奇跡、ほぼ絶対ないと言い切れる。というのが私の考え。
 私はこう思う、いや私の考えは違う、そういうやりとりを議論と呼ぶ。私は。そうやってお互いの意見や考え、経験、知見をぶつけ合って、自分の論を更新していくのが好き。楽しい。
 誰かと議論すると、自分で見知ったり考えたりした以上の世界と触れられる。自分の世界が広がる。だから、人は議論するのだと思ってる。

 ところが、議論を「どちらが正しいか」を決めるもの、さらにいうと「私の意見が正しいのだから同意、共感すべし」と相手の考えを否定し、自分の考えに乗り換えさせようとする人もいる。
 何をもって正しいというのか。たとえば現行がそうだから正しい、これまでそうやってきたのだから正しい、とか。それもひとつの真理。でも。
 そう、「でも」なのだ。「でも、私はこの方がいいと思う」と理想を述べる。理想は理想にすぎない。では理想は正しくないのか。
 そんなふうに議論をしてよりよい方向へ、何をもって「よりよい」のかはさておき、最適解へ近づこうとせずに、正しいから変える必要はないと切り捨てるのはもったいないなぁと思う。私は。
 基本的に、正しいものなんてないと思っている。最適解はあるけれど。立場や経験が異なれば、正解はひとつではない。はず。たぶん。
 最適解とは、より多くの人に益があるもの。損をする人が少ないもの、ともいえる。ま、私はそう思うという話。そうじゃないという人もいるだろうし、最適解より正解がよいという人もいるだろう。それはそれでいい。
 ただし、私はこう思う、自分はこう思う、違うね、そうだね、が成り立つ場合において。

 自分の考えが正しい、あなたは間違ってる、だからこっちの言うことを聞け、自分の意見を捨てろ。
 こういう人とは相いれない。もし「たしかにそうだな」と思ったとしても、そういう態度だったら絶対に認めない。
 議論は尽くすもの。自分の正しさを証明する場でも、認めさせる場でもない。
 ということを、つくづく思った週末でした。今思えば、あれば議論ではなかったのだろう。おそらく私以上に考えて、よりよい方向へ進めようと尽力して、それでも何も変えることができなかった人の呪いの言葉。自分にできなかったのだから、あなたの理想も叶うはずはないという。
 でもね、私の考えは理想で、理想は理想にすぎない。叶わないことの方が多いと分かっているのだよ。だからといって理想は捨てない。自分の考えを語り続けるし、それがもし現実になったからといって自分の考えが正しかったなんて思わない。そのときにはさらなる最適解を求めてると思う。
 だって考えるの、楽しいじゃない。議論するの、楽しいじゃない。そう思わない人と議論するから相いれないことになるんだ。と、毎度のことながら思ったのでした。

  

  

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