そこにある

 多様性を強調するのが好きじゃない。「世界は多様で満ちているんだよ!」とうたうほど、多様ではなくなる。声高に「こんな生き方もある」「こんな働き方がある」「こんな考え方がある」などと提示されなくても、どれもこれも「そこにある」。
 「そこにある」とは、なにもかもが同一レベルということ。突出しておらず、どれもフラットだということ。

「みんな知らなかったかもだけど、こんな生き方があるんだよ!」と提示することは、その生き方が日陰の存在だと言い切り、それを表に引っ張り出すこと。凹から凸へ。全然フラットじゃない。
「こんな生き方がある」「こんな働き方がある」「こんな考え方がある」。みんなが知っていても、誰も知らなくても、いろんな生き方、働き方、考え方がある。もうそれが多様であるということ。
 知られていることだけが多様ではない。だって、まだ知られていない生き方、働き方、考え方、なんならまだ知られていない文化や民族もあるかもしれない。知らないことなんて、世界にはたくさんある。

 知ることの意義はわかったつもり。あくまで、つもりだけど。
 でも、知る対象は「こんな生き方、あんな働き方、そんな考え方」ではない。知るべきは「知らないことなんて、世界にはたくさんある」ということ。ここでいう「世界」は、自分の外という意味。
 自分の知識、思考、感覚、経験、想像、そんな自分の中にあるものとは一致しない、推し量れないものがあるということ。そして、それを自分がよしとしなくても、よしとする人がいるということ。
 「こんなのもある」「あんなのものある」「そんなのもある」だと、それ以外はないことになる。見えているもの、提示されたもの以外は多様からこぼれ落ちてしまう。

 人は同じじゃないことが同じということ。違っているという同一性。
 あなたはこうで、私はこう。私たちは違っている。違うことが共通項だね。知らないものと出会ったときに、そう思えるようになることが私の考える多様性。
 もちろん、それにはたくさんのサンプルを知る必要があるのかもしれない。そういう意味では、親に感謝。親自身を含め、いろんなサンプルを与えてくれた。そして親に反発することで、親の提示したサンプルだけがすべてではないと知れた。
 反発し否定もしたけれど、他者を否定することは自分を否定することにつながることにも気づいた。好き嫌いはあるけれど。受け入れ難いこともあるけれど。だからといって否定したら、相手に自分を否定する権利を認めることになる。つまり、自分で自分を否定する。
 だから否定はしない。否定は多様の真逆にあるものというのが、私の考え方。

 でもね、たくさんのサンプルを知るには、提示されたものだけじゃだめなんだよ。自分が知りたいと思わないと。知りたいと思うと、いつも隣にいる人も多様のひとつであると気づく。親も兄弟姉妹も、どれもこれもが多様の中の一粒だと気づけるかどうか。一粒は無限にあると気づけるか。
 そこがポイントであり、難しいところな気がしている。
 いやまあ、多様であることを広めたいと思ってないからいいんだけど。そして、無限にあることを知らないのもまた多様のひとつ。



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