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好きは好き

 昨夜、大好きな友だちと会って、一緒においしいお酒を楽しんで、おいしいものを食べて、笑って、桜の下を歩いて、話して、幸せな夜をすごした。いつもこの人たちと一緒だと幸せな気持ちになれる。死んでもいいと思えるくらいの幸せをもたらしてくれる人たちだから、どうしても言いたい。
「大好きだ―」
 でも、好きって何だろう。みんなの好きと、私の好きは同じなのか。推しへの好きと、友だちへの好きは違うのか。

 私には推しがいる。数日前、推しに決めた。その人の振る舞いや話にときめいた。
 そもそも恋愛の好きがわからないので、このときめきが恋と同じなのかがわからない。恋を生物としての本能だとするなら、推しとセックスしたいと思わないので恋ではなさそう。
 会えたらうれしい。話せたらうれしい。一緒にいて楽しい。観察していると頬が緩む。まるで孫といるおばあちゃんのようだ。推しってそういうこと?
 一挙手一投足、出てくる言葉に身を乗り出す。胸の前で手を組んでしまう。できるだけ丁寧に接したい。
 そう、大切な人なのは間違いない。好ましいのも間違いない。これまで私にとって特別だった人たちと同じだ。ということは、これまで特別だと思っていた人たちは推しだったのか?

 わかりやすく大好きな人がいる。毎週、ある意味、課金している。
 いつも週末に訪れるバーの店主であり、友だちであり、なりたい自分の具現。店外で会おうと思えば会えるけれど、なんとなく店に通う。うちのシェアハウスに来てごはんを振る舞ってくれることもあれば、住民たちとともに空き家を見に行くこともある。先週末は、私のバイト先のカフェに来てくれた。昨日はイベントの打ち上げで足りない分を払ってもらった。(年下のお兄ちゃん)
 一緒にいて楽しい。話し相手として最高。知らないことをおしえてくれる。愚痴は聞いてくれない。説教される。昨夜は足を踏まれた。
 本人の一挙手一投足より、相手をしているお客さんの表情を見てしまう。腹の立つことを言われ、テーブルの下で蹴っ飛ばしたこともある。いつか必ず鼻をつねってやる。
 でも、友だちの写真は最高だ。写真を撮ったと聞くとわくわくする。見せてもらう写真にときめく。そう、本人というより彼の写真の大ファンだ。(もちろん本人のことは大好きー、しょっちゅう腹は立つけどー)

 これまで大切だと思った人たち、推し、友だち、友だちの写真。それぞれへの好きは同じようで同じじゃないようで同じかもしれない。
 いずれも大切だと思う。推しは少し宙に浮いていて、友だちの写真はもっと角度が大きい。大切だと思った人たちは地平の左側にいて、友だちは右にいる。(昨夜のお店やタクシーで右側にいたからかもしれない)
 瞳孔が開くような感覚は、推しと友だちの写真に感じる。自分を取り繕うのは、誰の前でもしない。見た目よく見せたいとも思わない。友だちは撮った私の写真を確認して大笑いしていた。ひどい有様だったのだろう。でも気にならない。
 何を話していいかわからないのは、推し。だってまだ何も知らないから。でも、たぶんふたりきりでも何とかなる。相手が誰であれ、自分のことを話すのがいやだから質問しまくって会話を成立させる。(そして推しは気づかいの人)

 結局、好きは好き。好きに種類などない。すごく好きか、少し好きか。その好きにプラスアルファはあるか。そのくらいの差。
 大切だと思わない人を好きとは思わないし、好きと思う人は大切だ。好きな人と一緒にいたら楽しいし、楽しい時間をすごせる人のことは好きになる。そして、会えなくなっても幸せでいてほしい。私より長生きして欲しい。友だちも推しも二度と会えない特別な人たちも。
 私はひとつの好きしか持ち合わせてない。でも好きは好き。「大好きだ―」と平気で叫べるくらい、みんなことが大好きだ。


 

 

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